Smileゆり(柳澤由理)のはてなきブログ

魂と身体から自信を取り戻す・世界平和のメッセージ

世界平和第二部040 三輪山10 三輪山の神様

 

 

注意事項の中に、

三輪山はご神体で、登山はご参拝であり、信仰行為です。

ですから、できるだけ静かに登るように。

 

・・・・という注意がありました。

 

 

今回は平日のせいか、登山客が少なかったです。

山はとても静かでした。

主人と、初めは少し話しましたけれども、

そのうちに山の氣の清らかさに心打たれ、だんだん心が静かになり黙って登って行きました。

 

そのうちに、山の中の木も草も石も

「すべてが神様」であること、

「神様である山の中に入っている」ということに

気づかされました。

 

この山のすべては神様の領域であり、すべてのものは神様である、ということが身にしみてきました。

 

あぁ、私は山の神様のなかに、今いるんだ。

 

そう思うと、磐座がみえようがみえまいが、山頂まで行けなくたっていい、という気持ちになってきました。

 

そのうちに高野山で主人が貰ったお経の書

「南無大師遍照金剛」というお経の言葉が浮かんできて、

「すべてのものに、お大師様が宿り、 金剛石のように輝いていますよ」

という言葉の意味がリアルに感じられました。

 

「この目の前の世界のすべてが神仏なんだな。

 それは、この三輪山に限らず、この世のすべてのものが神そのもの、神の慈愛そのものなのかもしれない。

 神の愛そのものの中に私は生まれたのか・・・。

 淋しいとか苦しい辛い思いをして生まれてきたと思っているけれども、実際はこの世界には、神様の愛が満ち溢れているのではないだろうか。

 それに、三輪山だけでなく、この世界がご神体なのではないだろうか。」

 

途方もない、夢幻のイメージ、と言う人はいるかもしれない。

でも私は、

神に愛されていること、

神の愛に包まれた世界に生きていること、

を思いました。

 

 

その心の経験が大事なことだったのかもしれないなと思いました。

 

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・・・・・・・・・・・・・・・・

後日、この登山の関する一連のことで、何かが残っているような、もやもやする感じがするのでカウンセラーの先生に、お話を聞いてもらいました。

 

 

すると、先生は、大体を聞き終わって

「ちょっと『そこ』大事なポイントかもしれないよ」

と言いました。

 

 

『そこ』というのは、どこのことかと言いますと、

 

ヤマタノオロチの夢」の中で 白い蛇さんが

ヤマタノオロチと 私を一緒にしてもらっては困ります」

と言うのを聞いて、私はふむふむと頷きました。

三輪山5参照)

https://yulilove.hatenablog.com/entry/2019/08/15/083129

というところです。

 

カウンセラーの先生は言いました。

 

「それは、つまりその白い蛇さんね。

大神神社の神様は蛇さんだ、とあなたも言っていたでしょう。

卵のお供えがある、と言っていたでしょ。


大神神社の神様つまり、三輪山の神様が

梅原猛さんの仮説~ヤマタノオロチ三輪山』というのは違いますよ、

と言いにきたのではありませんか?

 

三輪山の神(白い蛇さん)はヤマタノオロチではありませんよ、

白い蛇さんが「私はヤマタノオロチではありませんよ」

と言いに出てきたのではありませんか?

 

もし、あなたがその白い蛇さんの話の「そこ」がわかってたら、

あなたは三輪山に登って確認に行く必要はなかったのかもしれません。」

 

 

ええええ!

三輪山の神様、蛇の神様、

私のところに出てきはったんですかぁ!?

 

 

なぜ、そこをスルーしてしまったんだろう?

なんでそこをしっかり受け取らなかったのだろう?

 

それどころか、

三輪山の白い蛇さんに対して「ヤマタノオロチと同一視」してたのか、

それはなんと、失礼なことやったか~!

 

(今頃気づくなんて、私って、なんてアホなんだろう!)

 

 

そうだ、

「登山は三分の一にしときなさい」と言う声に

意識が向いてしまったんだ!


せっかく
三輪山の蛇神様が出てきてくださったのに!

どこかで「三輪山の蛇神様」とわかっていながら、

「何や知らんけど、白い大きな蛇さんが出てきはったわ」

という風に頭のなかで、変換して、受け取れなかったんだ!

 

そして

「私はヤマタノオロチとはちがいますぇ」

と言われた言葉を、その一瞬後に、

スルッと頭から抜け落ちて、記憶を消去してしまいました。

 

なんてことだろう。

 

そういえば

行って帰ってきてから思い出す、ということ・・・。


岡山の安仁神社に行った時もそうでした。

 

行く当日の朝に「神武東征の光と影」の夢のお告げを

受け取っておきながら、目覚めた瞬間に忘れてしまい、

 

岡山に行って帰ってきて、夜になってから思い出す、ということがありました。

 

 

そして、山を登ってみると、神様の大きさに心打たれて、

 

本を読んで気にしていた、

大国主命出雲国に左遷されたのかどうか?

という懸念は消えてしまいました。

 

そして、山の真ん中から上のところも

登らなくてもいい、という感じがしました。

 

それは、私が関与しなくてもいい。

私の仕事ではないんだ、という感じがしました。

 

 

 

神話の世界は人間が作り出したものなので、神様の世界から見てみると

「あんさん、それはちょっと違いますょ」っていうことがあるかもしれません。

 

 

もしかして神様にも「ランク」?というのがあって、

三輪山のような「古代からある大きな神様、本流の神様」というような神様と、

それから、人間に近い「末端の神様」というのとがあるのかもしれません。

そしてそれは役割が違うということなのかもしれません。

 

そう思うと、しみじみ

三輪山の神様は本当に日本の古代から

あらせられる神様で、とても大きい存在なのだ、と改めて感じさせられました。

 

三輪山の登山から1週間がたったある日のこと

 続く