Smileゆり(柳澤由理)のはてなきブログ

魂と身体から自信を取り戻す・世界平和のメッセージ

第四部31話「一切」が加えられた(「一切経の歴史」1)

いつから行っていないのかわからない程ですが、

大阪市の中央図書館に行き、久しぶりに閲覧室を見ました。

 

探しているのは「玄奘三蔵法師」が

天山山脈を越えについて描こうとして資料が殆どありません。

閲覧室で代わりにこんな本をみつけました。

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「般若心経の歴史と祈りの美学」

大型本です。

「般若心経の歴史と祈りの美学」

(飯島太千雄:著 浄土宗・清林寺:刊)
アマゾンのページ

飯島太千雄さんのページ

 

中を見ていくと、驚くことが書いてありました。

 

今日、日本で使われている「般若心経」は玄奘訳である、と聞いていました。

 

しかし、玄奘が翻訳したものと、昨今私たちが使っている「般若心経」は少し違うそうです。

日本に伝えられた時点で、「日本バージョン」となっているそうです。

 

まず、タイトル。

私たちが使っている般若心経は「仏説摩訶般若心経」。

玄奘が訳したものはただの「般若心経」です。

 

日本に伝えられた時、当時日本の天皇が「般若心経」をありがたがり、写経につとめたそうです。

その時、「ありがたいものなんだ」という触れ込みで

「仏説」=「仏尊・お釈迦様が説かれたお経なんですよ」という意味の言葉を頭につけ、

「摩訶」=「大」の意味。

 

総じて元々のタイトルに「権威づけ」してあるのです。

 

タイトルは、大した意味ないと思います。

私はなぜか昔から「仏説」「摩訶」なしでいきなり「般若心経」と言ってきました。



驚いたのは中身のことです。

私たちが唱えている般若心経では「一切」という言葉が三か所使われています。

しかし

お経の真ん中あたりで「遠離一切顛倒」と唱えているところの「一切」は、本当はないのだそうです。



おんりいっさいてんどうむそう」と丸覚えして、そのまま唱えてきたのに、

「遠離顛倒無想」(おんりてんどうむそう)なのです。

 

「一切」を加えることで、内容を強調しようとしたようなのです。

 

それから、般若心経を唱える時は

初めと終わりの「一切」はつけているままですが、

真ん中あたりの「一切」は言わないで唱えてみようと、チャレンジしました。

 

すると、

なんとなくなのですが、般若心経を唱えている時、とても力がぬけて、ほどよく声が響くような感じになるのです。

 

元々の般若心経はシンプルなのです。

 

すごいもんだなぁ、たった一か所の「一切」という言葉を加えるか、外すかでこんな風に変わるんだ・・・と思いました。

つづく