第四部19話 玄奘三蔵の骨が薬師寺に(大唐西域記4)
三蔵法師玄奘の動画を描くと決めた頃から、図書館で関連文書を片っぱしから借りる日々となりました。
宇治市の図書館で「平山郁夫と玄奘三蔵法師ものがたり」という本を借りました。
その本を読んで、ものすごくびっくりしました。
第二次世界大戦中、日本軍が玄奘三蔵の頂骨の入った石棺を発見した、というのです。
当時、日本と中国は激しく戦っていました。
もちろん日本から見て中国は戦争の敵でした。
しかし日本軍は、南京政府に頂骨の石棺と一緒に見つかった副葬品や仏像を返したそうです。
(日本のものにしてしまわなかったのが、すごい、と思います。)
南京政府は、玄武山の上に塔を作り、そこに、玄奘の頂骨を収めたそうです。
その落慶法要(らっけいほうよう)には、日本側も参列したそうです。
当時中国と日本は激しく戦っていたにも関わらず、です。
激しい戦禍にありながら、玄奘の魂は、敵対する日本と中国を一堂に合わせました。そして厳かに落慶法要が行われました。
玄奘三蔵という人の存在が、狂気と破壊を生み出す戦争時下において、平和と冷静さ、相手国への尊敬と尊重、協力という空気を作り出したのです。
玄奘三蔵という人の凄さを感じさせます。
「世界平和」そのものを感じさせます。
そして中国側から日本へ分骨が提案されました。
それが1944年太平洋戦争の真っ只中のことです。
日本ではどこに安置すれば空襲の被害を受けずに済むか?と検討されました。
選び抜かれたのが、玄奘が天竺から帰国して翻訳活動を行なった「大慈恩寺」と同じ名前の「慈恩寺」(さいたま市岩槻地区)でした。
薬師寺は、玄奘がもっとも極めたかった唯識論の流れを組む法相宗の大本山であり、遣唐使道昭が長安で玄奘三蔵法師に師事した、ということもあります。
それで慈恩寺から薬師寺に分骨をお願いし、薬師寺は玄奘三蔵院伽藍を建設しました。そしてこんにち、玄奘三蔵院伽藍にて、玄奘の頂骨を奉納している、ということなのだそうです。
それは行かなければ、と思いました。
続く