Smileゆり(柳澤由理)のはてなきブログ

魂と身体から自信を取り戻す・世界平和のメッセージ

世界平和第二部60話(元出雲8)天地開闢って?

出雲大神宮御神体の山(御影山)におられる 

国常立尊という神様は聞きなれない神様です。

 

しかし、『日本書紀』本文では
天地開闢(かいびゃく)の際に出現した最初の神としており、

純男の神である」と書いてあります。

 

 純男=(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)

つまり根源神の一柱だということですね。(日本書紀によるとです)

 

そして、

神名の「立」は、

「国」を「国土」

「常」を「永久」と解釈して

名の意味は「国土が永久に立ち続けること」とする説があります。

他にも、

日本の国土の床(とこ、土台、大地)の出現を表す名前である、

とする説など諸説あります。

 

 

・・・つまり、日本の国が永遠に立ち続けますように、働いてくださっている神様である、ということになりますね!

 

 

そこで神話に書かれている天地開闢の物語を見てみましょう。

 

古事記日本書紀の「天地開闢」は、ずいぶん違うようです。

 

古事記の場合は、世界の最初、高天原(たかまがはら)に三柱の神(造化の三神)が相次いで現れました。

 

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

高御産巣日神(たかみむすひのかみ)

神産巣日神(かみむすひのかみ)の造化三神です。性別はありません。

 

そのあと次々に神様が現れ、その中に国乃常立神(国常立尊)の姿もあります。

 

 それと比べて、日本書紀です。

 

日本書紀の「天地開闢」の文章は、誰かが、「夏休みの宿題」とかで毎日眺めて観察絵日記でも書いたかのような感じです。

 

(「古事記」は物語ぽくて、

日本書紀」は観察日記ぽいです。笑)

 

 

日本書紀」の開闢を見て行きましょう。

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空と海の写真

世界がまだどろどろしていて、空と陸の違いがなく、混沌としている時に、

なんとなーくあっちとこっちに分かれるんです。

 

清浄なものは上昇して「天」となり、重く濁ったものは「大地」となりました。

それが「天地」になった訳です。

 

その天地の中に、葦の芽のようなものがうまれ、それが神となったそうです。

国常立尊(くにのとこたちのみこと)」(一番目の神様です)

国狭槌尊(くにのさつちのみこと)

豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)の三柱がうまれ、

これらの神々には性別がなかったそうです。

 

日本書紀にはいくつもの別書があり、根源神は色々な説がありますよ、ということで、いくつものパターンがあります。しかし、それらをトータルで見て行くと、大体、国常立尊が初めに出てきはった神様である、と見ていいようです。

 

また、天地に葦の芽のようなものがうまれ、それがやがて人の形になり、神となった、と書いてあるものが多いです。

 

 

ここまで書いていて、思い出しました。

出雲大神宮の本殿の前横あたりに、こういう立て札がありました。

 

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大八洲國國祖神社の立て札

「皇祖より壱萬年以前、大八州國國祖神社」

(おおやしまのくに・くにの・みおやの・じんじゃ)

 

・・・わかりやすいように「・」をつけてみました。

 

確か、二回目にお参りをして、帰るまぎわに見かけ、その立て札の写真を撮影して、おいとましました。

 

バスのなかで「大八州」という言葉の意味をしらべました。

するとその意味は「日本」と出てきました。

 

「え? 日本?」と驚きました。 

 

子供向け「古事記」の本を見ると、

「いざなぎ、いざなみの神様が結婚して、

淡路島(おのころ島)、四国、九州、本州など

大小さまざまな八つの島を産みました」

とありました。

 

それが「大八島(大八州)の国」であり「日本」なんだそうです。

 

 

話を元にもどして。

 

出雲大神宮(もと大八州國國祖神社)は、

 

宇宙のはじまり、神のはじまりの神様である、

国常立尊が、ご神体の山におられるということと、

 

日本の国を一つにまとめた、大国主命とその妃神の三穂津姫命の夫婦が祭神であるということ、

 

その大国主命が皇祖に国を譲られ、自分は隠退された、その約束の時にご結婚されたので「日本一のえんむすび」の神社となった・・・。

 

この存在意義を考えると、

 

日本書紀国常立尊の神様は

古事記の天御中主(アメノミナカヌシ)様と 同じくらい重要な神様ではないか!

 

そして

古事記の国生みの神話の元になった(淡路島の)伊弉諾神宮と同じくらい、この出雲大神宮も重要な神社なのではないか?

と思いました。

 

出雲大神宮は、本当は凄い神社だったのでは、ないか。

それならば、なぜ有名ではないのだろうか?

 

もしかして本当に凄い所は、あまり人がいかないようにして、「守った」のかもしれません。

 

人が沢山行くところは、神様の筋から見てみると本筋ではなく、脇筋だったりします。

 

人でもそうですね。

本当の凄い先生というのは、市井の人と同じようにしてひっそりと暮らしていたります。

プロ中のプロ、という人は、目立たなかったりします。(中にはすごく目立つ人もいますが)

 

出雲大神宮はそういう神社であり、ちょっと辺鄙なところにあり、ちょっと行きにくいので、行くべき人だけが行くようになっているのかもしれません。

 

 

続く