世界平和第二部96話(家康と秀吉1)「関ヶ原を通って元城町東照宮に行く」
友人MKさんが「元城町東照宮(もとしろちょう・とうしょうぐう)」について説明してくれました。
浜松には浜松城があって、家康が建てたお城として有名ですが、
もともとは「引間城(曳馬城)」というお城がありました。
家康が浜松城を築くまでの間、生活していたのが引間城です。
それ以前に、織田信長にお仕えする前の秀吉が引間城にいたこともあります。
二大武将が無名時代をすごした場所です。
その引間城跡に「元城町東照宮」という神社が建てられました。
双方とも出世して天下をとったので、「出世の御利益」があると言われています。
MKさんは「そこに一緒に行きませんか?」と誘ってくれました。
そういえば、MKさんは昨年豊国神社に一緒にお参りしてくれました。
その時に秀吉と甥の秀次一族のことを教えてくれました。
2020年の正月あけて、しばらくたったある日の朝、
青春18きっぷを使って私はMKさんと一緒に京都から浜松に向かいました。
列車が東に進んでいくと、だんだん突風と雨の空が晴れて行きました。
列車で移動の途中、うたたねをしていたら、なぜか急に寒気がしました。
胸の奥がきしきしと細かく痛む感じがして、背筋がぞくぞくっとしてきました。
「風邪、ひいたのかしら?」と思ってティッシュを探そうと目を開けました。
その時、列車の扉の上に「次は関ケ原」と案内が出るのが見えました。
「あぁ、関ヶ原。道理で胸の奥が痛むと思った」
と私は独り言を言いました。
一昨年の夏の長野に行った時、
通らなければならなかったことを思い出しました。
胸の奥の寒気と痛みがどうやったら消えるかなぁと思いました。
「南無阿弥陀仏」と唱えるのが一番効きました。
やはりお弔いが一番ですね。
「戦いで辛かったですね。勝っても負けても、痛いし怖いですよね。
ご苦労さまでした。天に還っていかれますように。」
という思いを込めて「南無阿弥陀仏」を唱えさせて頂きました。
すると胸の奥の痛みがやわらぎ、
そこから花が咲くような、柔らかい感じがしました。
関ヶ原の戦場に残っていた、いくつかの魂たちが
昇天されたのではないか、と思いました。
MKさんと戦いの無残なことなどを話しているうちに、浜松に到着しました。
駅前で早めのお昼ご飯を食べてから、バスに乗って東照宮に行きました。
バスを降りて場所はちょっとわかりにくかったです。
普通の神社は大きい通りに面して鳥居があります。
こちらの元城町東照宮(もとしろちょう・とうしょうぐう)の
鳥居は道路に面して立っていなくて、
東照宮のすぐ前のところにありました。
「あれ? ひっそりとしていて、地味な所。地味な感じですね。」
と私は言いました。
MKさんは「そうそう、元城町東照宮について書いてあるのを読んだ時も『地味にひっそりとしている』と書いてありましたよ。」と言いました。
鳥居の右側に案内があり、「引間城本丸跡」と書いてありました。
鳥居をくぐり、参拝することにしました。
手水舎で手を洗う前に、
手水舎の屋根のすぐ下にかわいい猫の彫りがありました。
日光東照宮の眠り猫に似せているのでしょう。
また手を洗っている時に、その手水舎の屋根の裏側に
羽根のある龍が描いてあるのが見えました。
拝殿にて手を合わせました。
家康さんの「氣」を感じました。
「あ、家康さんが出てこられたな」と思いました。
そういえば、出かける日の前夜に眠ろうとしたら、
秀吉さんではなく家康さんが出てこられたのを思い出しました。
それがものすごい「たぬきおやじ」でした。
「煮ても焼いても食えなさそう」なふてぶてしさ、図太さで、物凄い貫禄でした。
「こんな人見た事ない!」と言う位の「古狸」な感じの人でした。
拝殿に向かって手を合わせると「戦いに望む者」のとことん腰がすわった感じが伝わってきました。あぁ、家康さんだなと思いました。
そして「皆の者!」と声をあげているのが聞こえました。
「皆の者! 戦いだ!」と云うような言い方で
「ゆりのもの!」と言われました。
「は、ゆりの者…あ、私のことですか、はい」と言いました。
「百合の者」と再び呼ばれて「はい」と返事しました。
「百合の者、よくやった! あっぱれじゃ」
「はぁー、ありがとうございます。…しかし、私はまだ何もやっていませんが」
そう思ったけど、まずは受け取っておこうと思いました。
「はっ、ありがとうございます。」と答えました。
何かをする前に「祝福される」ことはよくあります。
それでいいのかもしれません。
なにごとか、できるのでしょう。
拝殿の横に家康と秀吉の像が立っているのが見えました。
その像というのは、 続く