世界平和第二部 080 話 秀吉6 角倉了以と瑞泉寺
謀反の罪をきせられ、
切腹させられた秀次公と
処刑させられた一族の方々、
家臣の塚が
三条の鴨川の
河原にあって、放置されていました。
鴨川の西側に、角倉了以とその息子素庵(すあん)が、高瀬川という運河を作る時に、
その放置されていた「塚」を弔って瑞泉寺とい
うお寺を建てました。
特に放置されていた塚があったところが「本堂」となっているようです。
境内は公開処刑をされた場所と重なります。
本堂の中に穏やかなお顔の仏像があるのが、
遠目からちらりと見えました。
そして、お賽銭箱の横に、「御朱印」の紙が置いてありました。
紙には秀次公の絵と
「瑞泉寺」のハンコが押してあり、
説明書きには
三百円と書いてありました。
その横に「日付」を押すハンコが
置いてありました。
自分で今日の日付を押印するのですね。
それを見ていると、なんとなくほしくなりました。
私はなんと、うまれて初めて、ご朱印というものに興味をもちました。
直観に尋ねてみたら「持って帰れ」と言われた感じがして、三百円をお賽銭箱にいれて「御朱印」をもらって帰ることにしました。
今までどこの神社に行っても、
どこのお寺に行っても、
「ふぅーん」と思って、眺めるだけで
貰って帰ったことなどなかったのに!
それが何故なのか、私にも説明できません。
お寺を出る前に
「資料室」のようなものがあり、
そこを覗いてみました。
秀次公の子どもや女性達の公開処刑がされた時、
お地蔵さんを持ってきて、
処刑される人の一人一人に念仏をあげて、
引導を渡した僧侶がいます。(78 話参照)
その僧侶のことを説明した記事が
貼ってありました。
その南側にあたるところが、
昔は「大雲院」というお寺があったこと
と、
そこの住職が秀次公の子供や
女性達 39 人が処刑される時に引導を
渡した、と言うことが書いてありました。
39 人の罪のない子供や女性達が
処刑される時に引導を渡したお坊さんが、
いたところ(お寺)が、
今の高島屋デパートか…。
歴史の昔話と思っていたのが、
なにやら急にリアルに感じられて、
ドキドキしました。
その工事をした角倉了以とその息子の素庵が、
ほっておかれた塚をみかねて、
そこにお寺を建てて、瑞泉寺と名付けた、
ということが知られています。
資料室においてある瑞泉寺による資料をみると、
裏話のようなことが書いてある紙があり、
驚きました。
これは二十一代目の瑞泉寺の住職さんが
書かれた文章です。
一部ここに書き写します。
その角倉了以の弟が、
実は当時後陽成天皇の脈をとるほど
高名な医者吉田宗恂であり、
秀次公の家臣だったそうです。
了以の弟 吉田宗恂は連座をまぬがれたけれど、
慶長 15 年に亡くなられたそうです。
その翌年慶長 16 年に、
了以は弟の一周忌の時に、
瑞泉寺を創建したそうです。
怨念の「塚」が秀次公一族の新たな
「墓所と寺」に生まれ変わるには、
理不尽な「秀次事件」の犠牲になった
人々に対する
「角倉家」の熱い思いが、
大きな力となったのではないか。
…と瑞泉寺の二十一代目の住職さんが
書かれています。
そうだろうなぁ、と思いました。
16 年放置されていた塚は、
水害もあって、荒れ果てていたそうです。
了以は、
弟が生前
「太閤秀吉の秀次に対するしうち」をひどい、
と
兄である了以に語っていたのを
気にかけていたので、
自分の弟の一周忌の時に、
瑞泉寺を建てたのではないか、と思いました。
秀次にも家臣がいて、
秀次は家臣との関係を大事にしていたと思います。
家臣(吉田宗恂)の兄(角倉了以)が、
取りつぶしにされた秀次一家のために
瑞泉寺を建てて、弔ったことを見ると、
秀次さんはいい主君だったのではないか、
と思います。
「家臣」が弔うというのだったら
話はわかりますが、
瑞泉寺は、家臣の「兄」が弔いで
建てたのだから、
やはり秀次さんがいい主君だった、
いい人だったという証拠ではないでしょうか。
つづく