Smileゆり(柳澤由理)のはてなきブログ

魂と身体から自信を取り戻す・世界平和のメッセージ

世界平和シリーズ第二部2話 『たくさんの神仏様』

立木観音に行き、そのすぐあとに
丹生都比賣(にうつひめ)神社に導かれ

そしたら次は高野山かなー、と思いました。

が、なんとなくまだ行かない気がして
しばらく様子を見ていました。


するとたまたまですが

本を読む流れがやってきて
何冊も読みふけるうちに
梅原猛さんの空海についての
著本に出会いました。

「京都発見 7 空海真言密教」(新潮社)

東寺には弘法大師空海の手に
よる「立体曼陀羅」があるんですね。

東寺には何度か行った事がありますが

「筋肉隆々の凄いマッチョな神様仏様が
いっぱいいてはるなぁー!」




彫刻塑像のバランスの見事さなどに
目を奪われて、曼陀羅としては
全然把握していませんでした。


そうだったのか、あれは立体曼陀羅だったのか
(すいません、全然知りませんでした。)


そう思いながら
ある夜、眠りました。


すると
目の前に仏像のお顔が見えました。

じーと見ていると、
その仏像のお顔は色々な顔に
瞬時に変化していきます。

(昨年、主人と
高天彦神社に行った時の
ことを思い出しました。
その時は
神武側に弾圧された長すね族をまつっている
蜘蛛塚・蜘蛛窟にて鎮魂の祈りを捧げたあとに
空の雲に神様のダンスが現れ
それを呆然と眺めていました。)

→(書籍は上巻第二部6章参照)

次々に立ち代わり入れ替わる仏像のお顔を
眺めていたら

そのうちに、
見えるのが顔だけでなく、
頭部の細部まで見えるようになりました。

頭髮の形や、頭につけてる飾りや
頭の上に沢山の仏の頭がついている
ものまで見えるようになりました。

へぇー凄い・・・
と眺めているとやがて全身が見えて

光背が目映い光の形であるとか
燃える炎のゆらめきであるとか
光背のところに沢山の仏様が
いらっしゃるものであるとか

色々なものが見えて来ました。

へぇー凄い・・・
と見ていると

目の前の仏像はもはや日本の仏像ではなく
中国のものになり、
チベットのものになり、
インドの神々になりました。

最後には

ふと、ありとあらゆる神仏の像を
見せられているのではないか?

と思いました。


あらゆる年代の
あらゆる宗教の垣根を越えて

私達の目の前にいるのだけれど
私達にはなかなか見えないでいる神々

私達の背後にも絶えず
付き添うように
おいでなのだけれど、
私達が感じないで済ませてしまう存在

大自然にも
人の心の奥底にもいらっしゃる
神々、神仏達の存在というのを

見せられているんじゃないか?

こんなに沢山の神仏がいるのに
私達が見失って、がむしゃらに
自己中心的に生きていることを
思いました。

すると沢山の神仏達が
ひとつになりました。

そして画面は変わりました。


泥々の「泥」というか
「えぐみ」「疼き」「腐敗していく」
というものが見えました。

その疼きのなんとも言えない
歪みの光が闇から浮かびました。

見ていると
人のDNAのような螺旋のものがみえ、
その螺旋のなかに巧みに
その疼きの歪んだ青い光が
入り込んで行きました。


それが代々伝えられていくうちに
遺伝子の情報を壊していくのが
見えました。

それがつもり積もって
今日まで来てるのか!


それで何かあったら、
遺伝子のなかに潜んでる
傷が疼くんだな。

それを癒したいのに
癒しきれなくて
かえって傷を深めていく・・・。

心理学で言うトラウマだ。

それを沢山の神仏達が
私に見せてくれているんだ
と思いました。


神々が手出しできないところが
ある、てことなんやな。
そこを私にやってほしい、と
言うことなんだな・・・。


からだの奥に刻まれている
代々の痛み
苦しみに悶え

人間にだけある苦しみかな?


それを見せられて
文章にして、
それを読むことで人の傷が癒されていくのなら
私にとってそれは本望だ。

えげつない、
えぐりとられるような痛み
を見せられて


ニュートラルな位置に保ったままで
見せられる。

どこかで、はまるなよ、と
支えがあるから、
見ていられる。

沢山の神仏達、
国境や宗教、民族を越えて
共通して人を支え導いている存在達は

人の心に寄り添いながら
手を出す出せないのギリギリの所で
サポートしてくださっている。

それでも人は本質的なものより
手を入れたマーヤ(幻影)を求める


本質を生きると
マーヤは自由自在なのに。

私は見させられ、感じさせられ
気付きを受け取り、それを書く。
そこで私は100話を越えて
第二部を書いていくことを
決意しました。


何を見せられるんだろう。
それが何でも見て受け入れて行こう
と思いました。