世界平和019話 神童寺(南山城2)
いきさつは覚えていないのですが、
ある時、主人と聖徳太子の話をしていました。
主人が
「僕の実家の近くに神童寺(じんどうじ)
という聖徳太子が建てたお寺があるよ」と言いました。
タイムドメインのスタジオで由井さんに会った(前18話)後で、
主人と二人で神童寺にいくことにしました。
車は、南山城地域の山をのぼるようにして進んでいきました。
結構山の上の方にあるんだなぁと思いました。
道の端に深い溝がある狭い道もありました。
主人は「こういう所を運転するのは危険だ」
と言いながら慎重にハンドルをさばいていきました。
神童寺の近くに公民館があり、その前の駐車場に
車をとめて坂をのぼって行くと神童寺がありました。
仏像拝観の方はこちら、という案内があり、
そこで拝観料を払い、本殿に案内してもらいました。
神童寺はかつて広い敷地があって沢山のお堂が立ち並んでいた時期もありましたが、
何度も兵火に焼失しそのたびに再建したそうです。
神童寺の、今の蔵王堂は1400年頃に再建されたものだそうです。
本殿で一番目立つのは本尊の蔵王権現(ざおうごんげん)像、
それと弘法大師像です。
役行者(えんのぎょうじゃ)がこの山で修行した時二人の神童の助力を得てこの像を刻んだと伝えられています。
この青い蔵王権現像は、すさまじい形相をされています。
調べてみますと、役行者は修験道(しゅげんどう)の開祖であり、伝説の呪術師でもあったようです。
まるで安倍晴明と弘法大師を合体させたようなイメージがしました。
役行者と弘法大師は同じ頃に生きておられたのかしら?と思って調べてみましたら、役行者がなくなられてから70年後に弘法大師が生まれました。
役行者は葛城山で山岳修行を行い、熊野などの山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた、とあります。
(詳しくはウィキペディアで「役小角」で検索してみてください)
これを見ると、ひょっとして弘法大師は役行者の跡を継いでいるんじゃないか?と思いました。
空海が中国に渡る前、日本国内で仏教を学んでいた時に、机の上の学びだけで飽き足らず、吉野の金峯山や四国の石鎚山などの山の中での修行をされたことや、役行者関連のことも勉強されたことだろうなぁということは想像がつきます。
こうしてみてみると、日本の仏教は、大昔から何人もの高僧が築き上げてきた教えや学びを面々と受け継いで今に伝わっているんだなぁと思います。
宗派がどうとか、教えの内容がどうとか、いうのはあると思いますが、それよりは仏教全体が時代時代に応じて変化しつつ、成長していったんだなぁと思いました。
弘法大師が日本にいる間に影響を受けた人の中に、役行者もいるんじゃないだろうかと思いました。宗派はちがうけれども、です。
役行者が山岳修験道を開かなければ、今の日本の仏教界はないのではないのでは?
呪術的な逸話が多くて、伝説の仙人のような扱いになっているのですけれども。役行者はもうすこし評価されてもいいのではないだろうか?と思いました。
この神童寺の本堂の脇には、石段をあがっていった高台があります。
その高台のところに、収蔵庫があります。
このお寺の受付で「仏像拝観」をお願いして、拝観料を払うと、
案内してもらい、その収蔵庫の中も見せていただけます。
そこには役行者像と赤鬼青鬼の像があり、愛染明王像、日光菩薩、月光菩薩像、もあります。
これらの仏像はみな言葉にできない、迫力があります。
この神童寺の仏像は、苦しみながら生きていく民を救うために、
いわゆる今までの釈迦像、観音像では、民は救えないとして、
神仏にとことん祈って「蔵王権現」を体得された役行者の気持ちが
伝わります。心をゆさぶられるものがあります。
この時代、生きていた人々の「人生」はさぞつらかったことでしょう。
先達の人々、ご先祖の皆様の心をささえ、命をつなぎとめて伝えていくものとして、仏教の教えはすさまじいものだったことでしょうね。
何度も兵火で燃えては再建されたということから、ここが「山城国一揆」の「南山城地方」でもあることを想い起こし、当時の生きて行くだけで精一杯だった農民の方々の、一揆を起こされた緊迫した思い、平和を切望する思いを想い起こしました。
つづく