Smileゆり(柳澤由理)のはてなきブログ

魂と身体から自信を取り戻す・世界平和のメッセージ

心が揺れ動いてもいいんだ~~河合隼雄氏の本を読んで

前の記事から1週間

間があいてしまいました。

 

香川県までマスターカウンセラー講座を

受講して そこで「禁止令」をやめて

「人生脚本の書き換え」をするという

大きなワークを受けたので

 

しばらく 頭が ぽよぽよ してました。

 

(ぽよぽよしていたのは、
 自分のなかで「障害」となっていた、
 怒りまくる父 に 手を焼いた経験を
 手放したので

 自分のなかの 記憶 の 倉 に あき が できて

 ぽよぽよーーっと ぼんやりしてしまったのです)

 

   マスターカウンセラー講座 ←リンク

 

ぽよぽよしていた時に していたことがあります。

 

それは 河合隼雄さんという 日本にカウンセリングという

ものを はじめて伝えた、ともいえる方の 本を読み

ノートに 整理していく という作業です。

 

そうすると まるで 写経でもしているかのように

落ち着いてくるのです。

 

わたしが 読んでいたのは

「生きたことば 動くこころ」というタイトルの

大学の講義での 河合隼雄さんの語録をまとめたものです。

 

  「生きたことば、動くこころ」--河合隼雄・著 ←リンク

 

そこで ちょっと 感動したものを 書いてみます。

 

カウンセリングを10回受けるとします。

クライアントは1回目から10回目まで

階段をあがるように、綺麗に心が落ち着いていく

とは限りません。

 

あるクライアントは ある時は

「あぁ、私はこの苦しみがあったおかげで

 人生を深く感じるようになった!」と

目を輝かせていた、

かと 思うと、

その次の週に来られた時には

「あぁ、私はなんでこんな目に!」と

苦しみもがき、

そうかと思うと

その次の週は また「私は幸せです!」と

言ってこられる。

 

そういう揺り返しが 繰り返されるクライアントが

いるそうです。

 

それに対して 河合隼雄さんは

その大きな 明暗 の 反転が あるがゆえに

クライアントにとって 人生に広がりが出てくる

可能性があり、

そのカウンセリングで語られていくこと自体が

その人が何かを生み出す、オリジナルの人生を

描くことになっているんだ、、、

 

というようなこと を 語っておられました。

 

それを読んで

 

カウンセリングを受けていなくても

普通の人でも こころが揺れたり

迷ったりしますよねーー。

 

その迷いや 揺り返しの時に

「どうして私はこんなに 気持ちが揺れるのー!

 どうして私はいつも 安定しないのー!」

と 思われる方も多いかもしれないですね。

 

でも、河合隼雄さんの言葉によると

 

その プラスとマイナスと見えるような

揺り返しを 繰り返していくことは

行ったり来たりしながら

らせん状に上がっていく・・・ということです。

 

らせん状に上がっていく、という表現は

前にも どこかで聞いたことあります。

 

でも この河合隼雄さんの本には

 

その らせん状に上がっていくとき、

その中心には 自分が大切にしているものが

ある、というのです。

 

親子関係が問題になっている人は

こどもを中心にして

大きく円を描きながら、それが渦巻きのように

ばねの らせんのようにして 上がっていく

というのです。

 

そうして自分の人生を作っていっているのだ。

ということです。

 

そう思うと 私も 私の友達も 世界中のみんな

迷ったりしていい。

考えることが反転してもいい。

その迷いこそが 人生をいろいろに思い描くこと

になるんだ。

 

ということです。

 

「正解」はない。

「間違っている」もない。

もう、どんな道だって、いい。

 

そう思うと ちょっと ほっとしたのです。

自分をゆるしていくと 自分に感動する

トラウマ解放セラピスト 柳澤由理です。

       *

月に一度 香川県の宇多津まで

マスターカウンセラー講座を受けに行っています。

 

    マスターカウンセラー養成講座 - jinseinantokanaru ページ!

 

長年セラピーをしてきて、
自分で自分を そうとう振り返ってきましたが

まだ

触らずにおいていた部分(一番暗かった十代の頃のこと)や

幼少時の自分のことなんかも、振りかえってみています。

       *

今までは だめな自分、というのがあったら

徹底的に 自分をジャッジして、やりこめて

否定しまくって、そのあげくに記憶の倉庫に

しまい込む、ということをしてきました。

       *

今は、そういう過去の自分に光をあてて

つらかったから、そうしたんやなぁ、という事や

そういう自分の過去の過ちを 許すという事を

チャレンジしています。

       *

今までは 許さないで生きてきたのです。

「許す」というのは こういうことか

という感じがします。

そして

そういう過去の過ちをありのままに認めて

光をあてていくと、そういう思いをしたから

そういうことを経験したから、

「これではいかん」と思って

人生を修正してきたんやなぁ、という事も

わかるようになってきました。

      *

なんとなく、ですが、

だめだめな自分も 認める

というか 許容しだしてきているんです。

      *

過去を受け入れる、

ありのままの、だめだめな私も受け入れると

だめだめな私は

ただのだめだめで終わらないんですね。

      *

今の自分がその時の気持ちも

その時の痛みもわかって

関係者への影響のことも考慮にいれて、

それでも

人生を生きていく、という意義

というのを感じています。

      *

今までだと

悪いことをした人は

「おのれ! 成敗してくれる!

 そこに直れ! 叩き切ってやるわ!」
みたいな、

正義の味方ぶった、怒りの権化みたいな精神になって

自分で自分をいたぶっていましたよ。

      *

正義の味方も一歩間違えれば

自分にとっての正義を踏み壊された、と言って

怒っている、

ただの八つ当たりにすぎないですからねー。

       *

   不思議ですが、

   なんで「正義」というものが

   あるとするならば

   「正義」は味方してやらないと

   いけないんだ?

   正義であれば、正義はそれ自体が力を発揮する。

       *

セラピストって 色んな人がいる。

「いい人ぶってる」人がいるのだけれど

自分にとっての「こうあるべき」を人に

押し付けているだけの人もいる。

私自身が

そういうの、全然してへん、て

いうつもりはない。

過去において、押し付けってしたことある。

でも

もう過去はいい。

反省はする。あぁ、ここがずれの元だったなぁと自覚しているところもある。

  でも

これからは 本当に気をつけていく。

         *

だって、今までとは違うレベルで

活動していこうと思っているからだ。

         *

話を戻して

自分で自分を許容していくと

自分で自分を受け入れだすと

自分が自分であることに 感動してくるのだ。

         *

自分が自分であることに 感動

って 変なことかもしれない。

自分が自分であることを 受け入れる

という文章は 見かける。

でも

自分が自分であること に 感動

っていうのは、

言葉ではうまく伝えられないけれども、

胸の奥とか

腹の底とか

どこか奥からじわじわとくる 響きなのだなー。

         *

静かな、静けさなんだけど、響いてくる、みたいな

そんな感じなのだ。な。

 

 

 

なぜ自分に厳しいのか?

セラピーを長年やってきて、

自分のこころの中に なにがあるか?
自分が自分を どう思うか?
ということが

その人の人生や
その人の世界観を作っていく根本の
ところになっていくんだな、
ということが

分かってきました。

 

自分が自分のことをどういう人間だと思うか?
そして
自分が自分にどうまなざしを向けるか?
ということは

親が自分がどう接したか?

ということが ひな形になっています。

 

親との関係で
親にいつも「ばか」と言われたら
自分で自分に対しても「ばか」と言ってしまいます。

 

反対に

親が自分を甘やかしすぎると、
もっともっと欲しい欲しいと言って
貰いたがるようになるそうです。

 

親から言われたから、というのが、
原因ですが、それだけでもない、
ということが わかりました。

それはこういうことです。

 

先日 私は自分が長年、
自分自身に対して厳しいまなざしや
厳しい、グッと堪えるようなきつい一言を
言ってしまうような癖が 抜けないできたことを
カウンセリングの勉強仲間にシェアしました。

 

その時

「うんうん、ゆりさん、つらかったね。

 厳しく言う以外なかったんやねー。

 でも

 ゆりさんは、なんで
 自分に優しくできなかったんやろか?」
と尋ねられて

 

今までだと
「親のせい」みたいなことを

 

こたえたと思います。

 

でもその時
カウンセリング仲間の方が

「ゆりさんは 自分に厳しいことを言う以外

 なかったんやな」

と言ってくださった言葉に、

 「は!」

と きて。

 

そうだ、その時、私は
優しくしたいと思うにしても

それまでが あまりにつらかったので
自分に厳しくするしか方法がなかったんだ。
だって
自分に優しくなんかしたら、
優しくされたりしたら、

自分が解けてなくなってしまう、
そんな感じがしたんや・・・

ということを 気づきました。

 

あまりに傷ついてきた場合、

それ以上傷を重ねないで、自分を大切に

自分に優しくしようと思っても

「優しくしないで!」
ということになってしまうんだ・・・。

 

自分に痛みを与えることで、
自分は生きてもいいと思えるような
そんな精神構造だったんだなぁ、

 

と しみじみ

 今はそういう精神構造から
 抜け出てきているので、

 痛みがある、と 痛みが嫌でも 痛みを重ねてしまう。

 ということの からくりが ちょっとわかった気がしました。

 

うわべだけ 取り繕っても

心のなかまで 許してない場合、

その許してない感が どこかで出てきます。

 

ひとは、いつか、その自分のなかの

「許してない」感とか

「ここだけは変えないぞ」感と

対峙せねばならない時がきます。

 

他の人にはわからないけど

自分のなかで ごまかしてきたけど

ごまかしきれない部分と

向き合う時、

それは

究極的に「素直になること」なんだと思います。

 

素直に

というのは

ひとのいうことを聞くのではなく

自分が自分に対して素直になる、ということです。

自分が自分を認めるとか

自分が自分を受け入れるとか

自分が自分の想いを感じ取ってやるようなこと

ではないかと思います。

 

人間には 自虐的な ところが あります。

 

それだから、戦争だとか

内戦だとか、おこるのでしょうけれども

 

本当のところ、自分で自分を痛めつけて

何の得があるのでしょうか?

 

誰かがかばってくれる、とか

誰かが優しくしてくれる、とか

そういうこともあるかもしれませんが

 

実際のところ、

痛めつけすぎると、

誰かからのやさしさや思いやりすらも

拒んでしまうほど、自虐が進んでしまうこともあります。

 

自分で自分を大切にしているか、していないか、
の ポイントは 幸福と健康を作り出しているかどうか
本当に満足している、幸福感に満喫しているか、
ということだと思います。

 

優しくされることを拒んだり

ゆっくりとのびのびすることに罪悪感を
感じていた自分を どんどん許していくことが

私の道なんだろうなと 思います。

仏様のお顔が・・・ 弘法大師ゆかりの話(3)

昨日から続けて書いています。

 

弘法大師がお生まれになった地にあります、
善通寺には 四国八十八か所霊場の砂を集めた、
お砂踏み道場があります。

   総本山善通寺

そこをマスターカウンセラーの皆さんと一緒に
お参りしていました時、

  オープンカレッジのマスターカウンセラー
   http://www.openheart-college.com/

9番目の仏様の前で 足がはりついてしまい、
必要なことに気がついたら、足が動くようになった件は
昨日 書きました。
  

   足がはりついて動かない! 弘法大師ゆかりの話(2) - yulilove’s diary 虹色の人生

その続きです。

順番にまわっていき、半分以上お参りがすんだ頃、
微妙に お参りする仏様のお顔が どれもこれも

・・・どうも・・・母親の顔に似ているなぁ・・・

という気がしてきました。

 

私の母は 薬師寺の国宝・吉祥天女像とよく似ています。

     吉祥天女画像【国宝】慈恩大師【国宝】二天像-薬師寺公式サイト|Guide-Yakushiji Temple

 

ですから、仏像とよく似ていると言っても不思議ではないのです。

 

見ていると 「母は仏なり」という言葉が浮かんできました。

 

母は、人間ですから、
色々な気持ちの時がありますし、
完璧で無欠な神ではありません。

勿論、私も、これをお読みの皆様もそうです。

 

それでも、母は 自分の持てるあらゆる手立てを尽くして
私と姉妹を育ててくれました。

そのことに感謝しています。


そのことで 不足に思ったことはありますが、

 

それは わがままなこどもの気持ちからくるものとして

過去は水に流していこうと思いました。

 

セラピストとして、自分の心をみつめて
心身の調整をしていく時に、
過去の感情を吐き出すようにする時がありました。

しかし

それは「感情」を吐き出すのであって、

母がしてくれたことに 不足を言うのではないんだ、
と 改めて 見直しました。

 

不足を感じるのは 自分の心であって、

その当時、母は それ以上のことはできなかった。

母は できうる限りの愛情を与えてくれた。

と 思います。

 

もう「愛されてなかったこども」という前提で
物をみるのは やめようと思いました。

 

そういう風に、心を整理した時に、

 

ふっと 目の前の 仏様のお顔が

母の顔ではなく、普通の仏様の顔になったのです。

 

おぉ、そうだったのか。
これは、母の愛に気づけよ~というメッセージだったんだ!

 

と心を 引き締めて、 残りの仏様のひとつひとつに
手を合わせて、88のお砂を踏みながらお参りさせて
頂きました。

 

尊い学びだったなぁと思いました。

足がはりついて動かない! 弘法大師ゆかりの話(2)

トラウマ解放セラピストの 柳澤由理です。

 

弘法大師ゆかりのお寺についての
ことを前ページから続けて書いています。

さて、

善通寺にお参りさせていただきました。

http://www.zentsuji.com/

 

善通寺というのは、弘法大師がお生まれになった地に
立てたお寺ということです。


そしてこの善通寺には四国八十八か所お砂踏み道場

というのがあります。

詳しくは リンクを見て頂くとして ↑↑↑

四国八十八か所のお砂を集めてあって、
一番から八十八番まで 順番に回ります。

すると 実際に八十八か所回ったのと同じことになる、
というのですね。

入口で 500円払います。
すると 5円玉を100個入った袋を渡されます。

それを一個ずつ入れながら 手を合わせていきます。

 

お寺も神社も 「何々してください」と拝みに行く所ではありません。

もうすでに あるものとして、

ある、ということを感じ、

ありがとう、ということを感じて、お礼を申し上げるところです。

 

その前日にマスターカウンセラーの講師の藤川さんから、
その話をこんこんと言われました。

わかってるつもりでも、ちょっと
まだ、自分が「愛を受け取っていない子ども!」の気持ちで
いるんだなということを その時 わかって 反省しました。

そして

そのお参りのとき、

「もうある、受け取っている」と思いながら

1番から順番に お参りしていきました。

すると、少しずつ苦しくなっていきました。

あるところで、

そこから足が動かなくなりました。

足が床から貼りついて 動かなくなりました。。。

 

その時目の前にあったのは

なんと

 涅槃の仏様でした!

 

涅槃、ご存知でしょうか?

 

仏様が横たわっておられて、あの世にいかれるところです。

そして 番号が 9番です!!!!

 

おぉ 9番か!

 

これは どういうことか と 申しますと

 

9番で、一の桁から十の桁へと移る、最後の数字です。

 

つまり 1から始めたことは9で終わりだぞ、と。
その次は もう10になるんだぞ。

これまでやってきたことは、そこで卒業しなさい、
ということなんだな。。。

と 思いました。

 

「受け取り」ではない。

受け取る前から もう すでにあった ということを

知りなさい、と 言われた感じがして。。。

 

そうか・・・「受け取ります」と言うのではないんだ。

 

自分がこの世に生まれてくる前から すでに用意されていたんだ。

 

すべての関係も すべての恩恵も すべての愛も すべての食べ物も

すべて 用意されていたんだ。

 

そして じぶんのなかにも あるんだ。

じぶんのなかにも あったんだ。

 

ある という ところに 自分がいるんだ。

 

ある いる どちらも ありがたいことなんだ。

 

と 思いました。

 

そして それまでの 卑屈なこどものこころは

もう 捨てよう と 思いました。

 

セラピストとして やっていくなら、
どんなことがあっても

最後は よかったです、よかったな、よかったよ~

ありがとう~! で締めくくる。


そういう文脈で 生きていかねば~

 

と、心を新たにしたら、

 

やっと 9番から 足が動いて、10番に移動できました。

 

うむぅむぅぅ。

 

深い・・・・。

 

 ちなみに八十八か所の9番目の霊場はこちらです。

 

四国八十八ヶ所霊場公式ホームページ:第9番札所 正覚山 菩提院 法輪寺

 

続きます。

つながってる・・・・弘法大師さんゆかりの話(1)

トラウマ解放セラピスト
レインボーライフの柳澤由理です。

 

9月から、基本、月に一回
四国の香川県オープンカレッジまでマスターカウンセラーの講座を
受けに行っています。

 

いままで長年セラピーをやってきましたが、
とことん、セラピストを極めると思ったら

どういうぶれ方をしてきたか、を見極めること、や
人生の道を修正する方法や自己トレーニングの仕方
なども 学んでおく必要がある・・・。

今までの段階だと
軽いノリの ヒーリングとリラクゼーションの域で
終わってしまうので

しっかりと地に足をつけたセラピストとなって
医者ではないけれども、とことん深い傷も治っていけるよう
ガイドしていけるようなセラピストへと進化していく
つもりで 通っています。

 

そうして皆様のお役に立てる、
皆様の心の支えになれるセラピストとなるよう
精進しています。

 

さて、

この前は 香川県の「善通寺」に
コースのみなさんと 講師の先生と一緒に
行ってまいりました。

そこは弘法大師のお生まれになったところだそうです。

    総本山善通寺

弘法大師かぁ・・・。

 

と、私は4年前に 大阪と奈良の生駒の県境の

秘境ともいえる、暗峠のところにある

観音寺

に友達に連れてもらったことを思い出しました。

 

  真言宗 聖法山 観音寺(東大阪市東豊浦町)| トップページ

 

そこは弘法大師ゆかりのお寺で、境内に
弘法大師神泉苑で、ご祈祷をされたという説明文と絵が
飾ってありました。

神泉苑といえば
私の生まれ育ったところはそのすぐそばです。
たぶん、一番たくさんお参りしてんせいる神社兼お寺です。

 

神泉苑のサイトを見ますと、歴史のページに
弘法大師が雨ごいのご祈祷をされて、インドのとある池の善女龍王を
お呼びになり、雨が降った、という説明が書いてありました。

  神泉苑の歴史解説ページ

  http://www.shinsenen.org/kaisetu.html

 

また、この神泉苑で、昔、20年以上まえ
白衣観音さんに はりつかれた て 事がありました。

  その時のことはこれです↓

yulilove.hatenablog.com

この神泉苑での はりつき事件?と

4年前、友達に連れていってもらった、
大阪と奈良の生駒の境目の 暗峠という秘境にある、
観音寺での 観音像と 似ている!と思ったこと。

 

そして今回、善通寺にお参りさせていただいたのが
弘法大師さんがお生まれになったところだということ。

 

そのどれもが 弘法大師さんというキーワードで
つながっていることを 思い、

 

うぅーむ。弘法大師つながり、かぁ。と思いました。

 

善通寺のお砂踏みを体験させていただいて、
おぉ!
と 思った件は、
次に続きます。

許される、ということについて

トラウマ解放セッションの 柳澤由理です。

         ☆彡

昨日、ある失敗をしたことに気づいた。

        (++)

正確には、ある失敗を指摘された。

指摘してくれた人に、実は迷惑をかけてしまった。

        (++)

    あちゃーー。やらかしてしまった。

       気をつけていたのに。

          ・

          ・

          ・

     相手には謝るしかなかった。

          ・

          ・

     相手は 許してくださった。

          ・

          ・

 それをメールでやり取りしている時、

     不思議なことに気づいた。

       不思議ですよ。

          ・

普通、失敗したら、わたし、めっちゃ呼吸が詰まって

       息をつめてしまって

       「わわわわわ~~~!」と

         なるのですが。

 

     今回は相手に許していただき

 

      「許していただく」という

        体験をしている自分

 

     というのを 発見しました。。。

 

      「それってどういうこと?」

           と

       思われるでしょうね。

 

  つまり、私は今まで「失敗はいけない」とか

  「人に迷惑をかけてはいけない」とか

   思い込みすぎて、行動ができなかった。

         という事に

     気づいたのです。つまり、

 

        失敗しないために

       人に迷惑をかけないために

 

   私は 行動しない、人と会わない、という

        極端なことをしていた。

      ということがわかりました。。

 

         「それ間違ってる!」

        「そこが変!」とさんざん

   独身時代実家にいる時に、家族からつっこまれてきた。

 

   「もう、どんな失敗の指摘も、変と言われることもイヤ!」

         「どんなつっこみもイヤ!」

              と

            思っている。

 

           思ってきた、だ。

 

    だから、私は、行動できないできた。

    失敗に対するびびりがすごいのは突っ込みがイヤ、だから

    自分のなかでも、自分で自分に凄い「突っ込み」をしてしまう。

 

    その自己内つっこみが最近やわらいできた。

 

    と、思ったら、今回の失敗だ・・・。

 

    相手から許していただいた時にわかった。

    「私は許されていいんだ」と。

    自分が自分をゆるしてこなかったんだ。

    自分が自分をゆるしたらいいんだ。

    そして

    私は許されていきてきた、という経験が少ない。

    いや、周りからとっくに許されて生きてきたのに

    私の自覚がない。

    それだから、自覚するようにして、今回

    相手の潜在意識と私の潜在意識が話し合って

    今回の失敗を引き起こした。

 

    失敗は失敗だ。

    でも許されて、許していただいて。

 

    自分が許されることを 受け入れた。

 

    その安堵感。

 

    ずっと、私は自分に厳しくして生きてきたんだなぁ~

 

    ということを知った。

 

    呼吸が楽~。

 

   愛されている人って 周りから是認されて生きているのを

   自分でも十分知っている人なんだと思う。

   愛されているとか

   許されているとか

   受け身だけど

 

   そうやって許してもらいながら関係性を続ける、っていうの、

   昔はできなかったなぁ。

   人との関係で、自分が失敗したら、もうそこでその友達との

   関係を自分から身をひいてしまっていたなぁ。

 

   自分が「失敗してしまった自分」と感じるのが嫌だったんだなぁ。

 

   自分が自分の人生を生きにくくさせていた、だけなんだ。

 

   そうか。自分のありのままを受け入れていなかったなぁ。

 

   海の水のにがりも含めた自然の塩と

   塩分だけでつくられた人工的な塩は違うように

 

   人間もいわゆる「長所だけで生きよう」とするのは無理なんだな。

 

   人をまるごと。自分をまるごと。受け止めて。

   人生をまるごと。自然をまるごと。味わってみよう。