Smileゆり(柳澤由理)のはてなきブログ

魂と身体から自信を取り戻す・世界平和のメッセージ

仏様のお顔が・・・ 弘法大師ゆかりの話(3)

昨日から続けて書いています。

 

弘法大師がお生まれになった地にあります、
善通寺には 四国八十八か所霊場の砂を集めた、
お砂踏み道場があります。

   総本山善通寺

そこをマスターカウンセラーの皆さんと一緒に
お参りしていました時、

  オープンカレッジのマスターカウンセラー
   http://www.openheart-college.com/

9番目の仏様の前で 足がはりついてしまい、
必要なことに気がついたら、足が動くようになった件は
昨日 書きました。
  

   足がはりついて動かない! 弘法大師ゆかりの話(2) - yulilove’s diary 虹色の人生

その続きです。

順番にまわっていき、半分以上お参りがすんだ頃、
微妙に お参りする仏様のお顔が どれもこれも

・・・どうも・・・母親の顔に似ているなぁ・・・

という気がしてきました。

 

私の母は 薬師寺の国宝・吉祥天女像とよく似ています。

     吉祥天女画像【国宝】慈恩大師【国宝】二天像-薬師寺公式サイト|Guide-Yakushiji Temple

 

ですから、仏像とよく似ていると言っても不思議ではないのです。

 

見ていると 「母は仏なり」という言葉が浮かんできました。

 

母は、人間ですから、
色々な気持ちの時がありますし、
完璧で無欠な神ではありません。

勿論、私も、これをお読みの皆様もそうです。

 

それでも、母は 自分の持てるあらゆる手立てを尽くして
私と姉妹を育ててくれました。

そのことに感謝しています。


そのことで 不足に思ったことはありますが、

 

それは わがままなこどもの気持ちからくるものとして

過去は水に流していこうと思いました。

 

セラピストとして、自分の心をみつめて
心身の調整をしていく時に、
過去の感情を吐き出すようにする時がありました。

しかし

それは「感情」を吐き出すのであって、

母がしてくれたことに 不足を言うのではないんだ、
と 改めて 見直しました。

 

不足を感じるのは 自分の心であって、

その当時、母は それ以上のことはできなかった。

母は できうる限りの愛情を与えてくれた。

と 思います。

 

もう「愛されてなかったこども」という前提で
物をみるのは やめようと思いました。

 

そういう風に、心を整理した時に、

 

ふっと 目の前の 仏様のお顔が

母の顔ではなく、普通の仏様の顔になったのです。

 

おぉ、そうだったのか。
これは、母の愛に気づけよ~というメッセージだったんだ!

 

と心を 引き締めて、 残りの仏様のひとつひとつに
手を合わせて、88のお砂を踏みながらお参りさせて
頂きました。

 

尊い学びだったなぁと思いました。

足がはりついて動かない! 弘法大師ゆかりの話(2)

トラウマ解放セラピストの 柳澤由理です。

 

弘法大師ゆかりのお寺についての
ことを前ページから続けて書いています。

さて、

善通寺にお参りさせていただきました。

http://www.zentsuji.com/

 

善通寺というのは、弘法大師がお生まれになった地に
立てたお寺ということです。


そしてこの善通寺には四国八十八か所お砂踏み道場

というのがあります。

詳しくは リンクを見て頂くとして ↑↑↑

四国八十八か所のお砂を集めてあって、
一番から八十八番まで 順番に回ります。

すると 実際に八十八か所回ったのと同じことになる、
というのですね。

入口で 500円払います。
すると 5円玉を100個入った袋を渡されます。

それを一個ずつ入れながら 手を合わせていきます。

 

お寺も神社も 「何々してください」と拝みに行く所ではありません。

もうすでに あるものとして、

ある、ということを感じ、

ありがとう、ということを感じて、お礼を申し上げるところです。

 

その前日にマスターカウンセラーの講師の藤川さんから、
その話をこんこんと言われました。

わかってるつもりでも、ちょっと
まだ、自分が「愛を受け取っていない子ども!」の気持ちで
いるんだなということを その時 わかって 反省しました。

そして

そのお参りのとき、

「もうある、受け取っている」と思いながら

1番から順番に お参りしていきました。

すると、少しずつ苦しくなっていきました。

あるところで、

そこから足が動かなくなりました。

足が床から貼りついて 動かなくなりました。。。

 

その時目の前にあったのは

なんと

 涅槃の仏様でした!

 

涅槃、ご存知でしょうか?

 

仏様が横たわっておられて、あの世にいかれるところです。

そして 番号が 9番です!!!!

 

おぉ 9番か!

 

これは どういうことか と 申しますと

 

9番で、一の桁から十の桁へと移る、最後の数字です。

 

つまり 1から始めたことは9で終わりだぞ、と。
その次は もう10になるんだぞ。

これまでやってきたことは、そこで卒業しなさい、
ということなんだな。。。

と 思いました。

 

「受け取り」ではない。

受け取る前から もう すでにあった ということを

知りなさい、と 言われた感じがして。。。

 

そうか・・・「受け取ります」と言うのではないんだ。

 

自分がこの世に生まれてくる前から すでに用意されていたんだ。

 

すべての関係も すべての恩恵も すべての愛も すべての食べ物も

すべて 用意されていたんだ。

 

そして じぶんのなかにも あるんだ。

じぶんのなかにも あったんだ。

 

ある という ところに 自分がいるんだ。

 

ある いる どちらも ありがたいことなんだ。

 

と 思いました。

 

そして それまでの 卑屈なこどものこころは

もう 捨てよう と 思いました。

 

セラピストとして やっていくなら、
どんなことがあっても

最後は よかったです、よかったな、よかったよ~

ありがとう~! で締めくくる。


そういう文脈で 生きていかねば~

 

と、心を新たにしたら、

 

やっと 9番から 足が動いて、10番に移動できました。

 

うむぅむぅぅ。

 

深い・・・・。

 

 ちなみに八十八か所の9番目の霊場はこちらです。

 

四国八十八ヶ所霊場公式ホームページ:第9番札所 正覚山 菩提院 法輪寺

 

続きます。

つながってる・・・・弘法大師さんゆかりの話(1)

トラウマ解放セラピスト
レインボーライフの柳澤由理です。

 

9月から、基本、月に一回
四国の香川県オープンカレッジまでマスターカウンセラーの講座を
受けに行っています。

 

いままで長年セラピーをやってきましたが、
とことん、セラピストを極めると思ったら

どういうぶれ方をしてきたか、を見極めること、や
人生の道を修正する方法や自己トレーニングの仕方
なども 学んでおく必要がある・・・。

今までの段階だと
軽いノリの ヒーリングとリラクゼーションの域で
終わってしまうので

しっかりと地に足をつけたセラピストとなって
医者ではないけれども、とことん深い傷も治っていけるよう
ガイドしていけるようなセラピストへと進化していく
つもりで 通っています。

 

そうして皆様のお役に立てる、
皆様の心の支えになれるセラピストとなるよう
精進しています。

 

さて、

この前は 香川県の「善通寺」に
コースのみなさんと 講師の先生と一緒に
行ってまいりました。

そこは弘法大師のお生まれになったところだそうです。

    総本山善通寺

弘法大師かぁ・・・。

 

と、私は4年前に 大阪と奈良の生駒の県境の

秘境ともいえる、暗峠のところにある

観音寺

に友達に連れてもらったことを思い出しました。

 

  真言宗 聖法山 観音寺(東大阪市東豊浦町)| トップページ

 

そこは弘法大師ゆかりのお寺で、境内に
弘法大師神泉苑で、ご祈祷をされたという説明文と絵が
飾ってありました。

神泉苑といえば
私の生まれ育ったところはそのすぐそばです。
たぶん、一番たくさんお参りしてんせいる神社兼お寺です。

 

神泉苑のサイトを見ますと、歴史のページに
弘法大師が雨ごいのご祈祷をされて、インドのとある池の善女龍王を
お呼びになり、雨が降った、という説明が書いてありました。

  神泉苑の歴史解説ページ

  http://www.shinsenen.org/kaisetu.html

 

また、この神泉苑で、昔、20年以上まえ
白衣観音さんに はりつかれた て 事がありました。

  その時のことはこれです↓

yulilove.hatenablog.com

この神泉苑での はりつき事件?と

4年前、友達に連れていってもらった、
大阪と奈良の生駒の境目の 暗峠という秘境にある、
観音寺での 観音像と 似ている!と思ったこと。

 

そして今回、善通寺にお参りさせていただいたのが
弘法大師さんがお生まれになったところだということ。

 

そのどれもが 弘法大師さんというキーワードで
つながっていることを 思い、

 

うぅーむ。弘法大師つながり、かぁ。と思いました。

 

善通寺のお砂踏みを体験させていただいて、
おぉ!
と 思った件は、
次に続きます。

許される、ということについて

トラウマ解放セッションの 柳澤由理です。

         ☆彡

昨日、ある失敗をしたことに気づいた。

        (++)

正確には、ある失敗を指摘された。

指摘してくれた人に、実は迷惑をかけてしまった。

        (++)

    あちゃーー。やらかしてしまった。

       気をつけていたのに。

          ・

          ・

          ・

     相手には謝るしかなかった。

          ・

          ・

     相手は 許してくださった。

          ・

          ・

 それをメールでやり取りしている時、

     不思議なことに気づいた。

       不思議ですよ。

          ・

普通、失敗したら、わたし、めっちゃ呼吸が詰まって

       息をつめてしまって

       「わわわわわ~~~!」と

         なるのですが。

 

     今回は相手に許していただき

 

      「許していただく」という

        体験をしている自分

 

     というのを 発見しました。。。

 

      「それってどういうこと?」

           と

       思われるでしょうね。

 

  つまり、私は今まで「失敗はいけない」とか

  「人に迷惑をかけてはいけない」とか

   思い込みすぎて、行動ができなかった。

         という事に

     気づいたのです。つまり、

 

        失敗しないために

       人に迷惑をかけないために

 

   私は 行動しない、人と会わない、という

        極端なことをしていた。

      ということがわかりました。。

 

         「それ間違ってる!」

        「そこが変!」とさんざん

   独身時代実家にいる時に、家族からつっこまれてきた。

 

   「もう、どんな失敗の指摘も、変と言われることもイヤ!」

         「どんなつっこみもイヤ!」

              と

            思っている。

 

           思ってきた、だ。

 

    だから、私は、行動できないできた。

    失敗に対するびびりがすごいのは突っ込みがイヤ、だから

    自分のなかでも、自分で自分に凄い「突っ込み」をしてしまう。

 

    その自己内つっこみが最近やわらいできた。

 

    と、思ったら、今回の失敗だ・・・。

 

    相手から許していただいた時にわかった。

    「私は許されていいんだ」と。

    自分が自分をゆるしてこなかったんだ。

    自分が自分をゆるしたらいいんだ。

    そして

    私は許されていきてきた、という経験が少ない。

    いや、周りからとっくに許されて生きてきたのに

    私の自覚がない。

    それだから、自覚するようにして、今回

    相手の潜在意識と私の潜在意識が話し合って

    今回の失敗を引き起こした。

 

    失敗は失敗だ。

    でも許されて、許していただいて。

 

    自分が許されることを 受け入れた。

 

    その安堵感。

 

    ずっと、私は自分に厳しくして生きてきたんだなぁ~

 

    ということを知った。

 

    呼吸が楽~。

 

   愛されている人って 周りから是認されて生きているのを

   自分でも十分知っている人なんだと思う。

   愛されているとか

   許されているとか

   受け身だけど

 

   そうやって許してもらいながら関係性を続ける、っていうの、

   昔はできなかったなぁ。

   人との関係で、自分が失敗したら、もうそこでその友達との

   関係を自分から身をひいてしまっていたなぁ。

 

   自分が「失敗してしまった自分」と感じるのが嫌だったんだなぁ。

 

   自分が自分の人生を生きにくくさせていた、だけなんだ。

 

   そうか。自分のありのままを受け入れていなかったなぁ。

 

   海の水のにがりも含めた自然の塩と

   塩分だけでつくられた人工的な塩は違うように

 

   人間もいわゆる「長所だけで生きよう」とするのは無理なんだな。

 

   人をまるごと。自分をまるごと。受け止めて。

   人生をまるごと。自然をまるごと。味わってみよう。

自分を育ててきた

高校の時、文芸部に入っていて

暗い心の葛藤を迷いを呟いていた。

 

その頃から自分の心を

みつめ続けて生きてきた。

 

自分が自分以外の何者にも

なれないことが

自分が自分でしかいられないことが

嫌だと思った。

 

自分は人より大したことはできない、

と思っていた。

 

今でも何ができるか?

と言うと

自分をみつめてきた、

心の辿ってきた道筋を辿って

ひとに

受け入れがたき自己を

受け入れていく道筋を示すこと

くらいかなぁ。

 

どこまでいっても

自分は自分だよ。

 

何かができるから評価とか

人からどう思われてるからどうだとか

 

そう言う人からの評価とか

自分で自分につけてる評価

みたいなのを

越えたら

 

最後の最後は

開き直りみたいなもんなんやなー。

 

生きる、てことは

自分は自分だと認めること。

それができたら

人のこともありのままに

認めることができる。

 

そのためには

自分のハートを大切にすること、

自分のボディをいたわること、

この二つは避けて通れない。

 

それができたら

ハートに力がついてくる。

ボディに力がついてくる。

 

基本的に自分を認めて、

それから徐々に育て上げていく。

てことやなー。

 

これから

自分育てについて、

やっていく、てことに

なるんやないかなー。

 

これまでもそう言うことを

書いてはきたんやけどね。

自己戦争が終わって

今年の夏、

ふとした時に

何をしても、何かを考えた時でも

つかさず、瞬間後に

 

自分で自分に

ダメジャッジをいれてきた

 

と言うことに気づいた。

 

人を安心させるような

よいセッションができたあとでさえ

 

自分で自分に

「そんなことを言って

自分は何もしてないくせに」

とか、突いてきた。

 

その瞬間に気づいた。

 

要は「それ」を

やめたらいいだけではないか?

 

その自分で自分に痛みを与えること

それが不要なのではないか?

 

その時に気づいてから

自分で自分に徹底的な痛みの

ダメージを与えないですんでいる。

 

たまにチラリと出てくるが

意に介しないで、流す。

 

何となく

鋭い突っ込みは正しい観点

と思い込んでいた。

 

ボクシングとかフェンシングみたいに

相手(自分)の虚をつく。

弱味をつく。

 

それしかやってなかったんやないかーー。

 

それは建設的なことじゃなくて

ここは間違ってるよ、と

言いながら

ぶち壊していく作業だ。

 

的確な視点で見てする指示は

必要だが

常に絶対マイナスの観点から

自分をこき下ろすのは

もう散々やり続けてきた。

 

こき下ろさなくてもいいことまで

こきおろしてきた。

 

それをやめだしてから

 

こきおろしが普通だったものだから

自分のなかでの心の重心の取り方

バランスの取り方が

難しい。

 

激しい突っ込みと

それに耐えることをずっとやってきたので

それなしの生き方

自分がありのままでいて

認める感覚を

一から身に付け出している。

 

自分のなかの

戦争、

自分のなかの

内戦、

それを終わらせて

心のなかのがらくたを整理して

 

その次は何をするか?

身体と心と繋がりながら

見つけていく。

 

自分の認め方

自分への優しさの示し方

自分を健やかに保つ方法

みたいなことをまとめてみたい。

宇治 萬福寺の驚き(4)走るのが速い、韋駄天って・・・

萬福寺に行った時の

へぇーと 驚き感心したことを書いています。

      ・・・

4つ目は「韋駄天の重さ」です。

「韋駄天(いだてん)」というのは

走るのが早い仏様ですね。

       ・

どういうのんか、というと、

調べてみましたら、

もともとバラモン教の神様で仏教に取り入れられた神様です。

なんでも、仏舎利を盗んだ鬼を追いかけて取り戻したので

それから「足が速い」というのを「いだてん」と言うように

なりました。

「あいつは足が速い、韋駄天のようだ」とか言いますね。

       ・・・

前記事で取り上げました、

「布袋さん」のま後ろに「韋駄天さん」がいらっしゃいます。

(「さん」づけが ふさわしいかどうかわかりませんが

 なんとなく、私は 親しみをこめて さんづけしています)

         ・

撮影禁止とは書いてなかったので、

韋駄天さんに「撮影していい?」と聞きました。

韋駄天さんは 黄金で 凛々しくって とても綺麗なのです。

   そしたら

「・・・いいですよ」という返事がしたような?

 神様や仏様の像は あまり軽々しく写真に

 撮影するもんじゃない、っていう気がするので

 布袋さんも撮影しなかったのです。

 でも 韋駄天さんは あまりにも綺麗なので

 撮影したかったのですよ。

で、そしたら、驚くべきことが!!!!!!

     ・・・・・・・・・・

なにが起こったと思いますか????

      ・・・・・・・

       ・・・・・

        ・・・

    実は 撮影したとたんに

        ・・・

        スマホ

      重くなったのです!

         ・

        ・・・

       ・・・・・

     わぁ、こりゃ偉いこっちゃ!

       と 思って

 

    韋駄天さんの写真を削除したら

        スマホ

       重さは元通りに!

 まぁ・・・・・・・・・・・・・・・・

  まぁ、なんと・・・・・・・・・

      そうなのかぁ・・・・

          と

びっくりしたので ございまするよーーー。

 

それとね

韋駄天というのは 足が速いでしょう。

私が思うに 足が速いというのは

一瞬にして遠くまで瞬間的に移動する

というのに近いでしょう?

瞬間的に移動できるっていうことは

物事を先回りして見通す目がある、って

いうことじゃないかーと思うのね~。

 だって

遠い先のことが見えてないとそこには

行かないでしょう?

遠い先のことが見えてるから、そこに

行けるんでしょう?

 ね。

だから韋駄天は足が速いというのは

先を見通す目がある、先を読み取れる眼識がある、

それだけ頭が速い、ということだと思うのね。

 人の心を読み取れるということもだし

 商売の先を読むということもだし

 自然界の移り変わりもわかるということだよね。

そして

足が速いということは行動力があるっていうことだし。

行動する人だっていうことだ。

結果が出せる人だっていうことだ。

      ・・・・・・・・・

弥勒菩薩の化身である布袋さんがいらっしゃって

そのま後ろに韋駄天さんがいらっしゃるっていうことは

 つまり

未来において 迷える人々を救おうとされる弥勒菩薩

布袋さんとなって、そのまるいお腹 つまり

度量の広さ・円満なお人柄と富貴の心で人々を救う。

 そのサポート?として

韋駄天が 現れて、瞬時に 悪いものは追い払い?

取られたものがあるとすれば 取り戻してくれて

その素早さ、行動力の確かさが 裏打ちされている

と 読み取るのは 深読みしすぎだろうか?

       ・・・・・・・・

萬福寺に関する記事は ここまでです。

 また 行くことがあったら 普茶料理など食べてみたいです。

 萬福寺

http://www.obakusan.or.jp/index.html