Smileゆり(柳澤由理)のはてなきブログ

魂と身体から自信を取り戻す・世界平和のメッセージ

固い背中の感情 2 背中とみぞおちの奥の悲しみ

前記事からの続きです。

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(はじめて はてなブログのお絵かき機能を使って描いてみました)

この動きをするのですが、みぞおちの奥とか

背中の真ん中のあたりが固いのです。

       *

いままで色々なボディワークをやってきても

背中をまるめるのは、苦手で

それ以外のところはそこそこ柔らかいのに、

そこだけが固いので できないエクササイズとかありました。

       *

ピラティスは身体のコアを鍛えるエクササイズ

なので、この動きやこれによく似た動きが

よく出てくるのです。

       *

しかも筋トレ的に動かすので、めっちゃ、苦手なものにチャレンジ!
って 感じなのです。

       *

今日は、この動きをやっていると、

講師の先生が軽く手をひっぱってくれたら、すっと

上体を起き上がらせることができました。

   軽く、で、できました。

   今までは、しっかりとひっぱって

   もらわないと 起き上がれませんでした。

       やっぱりひっぱってもらわないと

       起き上がれないというのは同じですが

       前より筋肉が鍛えられて柔らかになって

       きたという点は 上達してきた感! あります。

       *

その時です。

ふっと どこからともなく

こんな考えが浮かんだのです。

     *****

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     *****

      ***

       *

それは

 わたしはきらわれてないやろか

です。

       *

え?

どういうこと?

何の 脈絡もない 考えですよねー。

ピラティスの動きと 何の関係もないのです。

       *

仰向けから起き上がりのエクササイズを

繰り返しながら、

それが 軽くひっぱってもらって起き上がれたり

うんうん、うなりながらの時も 色々あって。

   それを ただひたすら やっている時に

    急に

     幽霊の囁きのように

      「わたし、きらわれてない、やろかー?」

       という考えというか

       頭の声がしてきた。

        *

その瞬間、体の感覚が消えて

頭の声が「きらわれて、ない、やろかー」

と こだまする。

「どうせ・きらわれて・る・やろー?」

と 言葉にならない声がする。

もぉんもぉんもぉんもぉん と する。

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       ***

        *

あ!!! これが 筋肉のなかに

こもっていた、過去の、ある時点の、私の思考だ!!

        *

そう 気づいた時、

すぐに 体の感覚が 戻って

「きらわれて・ない・やろかー」という考えが

消えた!

        *

そんな「疑い」に似た「考え」をもつには

その根っこに 何かの感情が あったはず!!!!

        *

何かのネガティブなことを考えつくには

感情があったはず!!

もともと 根本に ネガティブな感情がないことには

そんな けったいなことを 考えつくはずがないから!

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       ***

        *

そのもとになった、基本的な「感情」は?

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        *

    そう自分に尋ねたら

   まったく普通の状態に戻り、

 

   他にもこれでもかこれでもかと

   腹筋や 脇腹の筋肉を 鍛えるエクササイズが

   あり、わりとすぐにレッスンは終わった。

         *

        ***

         *

「き ら わ れ ・ て ・ ない ・かー?」

という 頭の声が こわかったのだが、

それは

昔から自分がどこに行っても

どのグループに所属しても

潜在的に 考えていた、感じていた

不安感 だった。

 

小学生の時に いじめられた・と・思った。

(いじめ は なかった らしい。

 私の中で あれは いじめだ と 思ったのだが

 いじめ は なかったのだ。

 この「いじめはなかった」の認識は こちらを見てください。

    ↓↓↓↓

  いじめ消滅? (鼻と私は 別) – 自然体に生きる ビー・ナチュラル

 

その頃から 私のなかに できあがった

感情というか考えというか疑惑だ。

 

「私は ここに いていいのだろうか?」

ということを思うこと。

 

その居場所がない感のもとになったのは

 

「わたしは きらわれて いないか?」

(きらわれている のでは ないか?)

と 見る見方だ。

 

そうやって、私のまわりの人を

わたしを攻撃する人はいないか?と見る視線だ。

 

つまり この視線そのものが 私を被害者にする。

つまり この視線でまわりを見る時、私はまわりの人々を

善意ある心優しい人にさえも いっとき 疑いの目で見る。

この視線は とても冷ややかだ。

 

「あんたも、どうせ、私を いつか 攻撃するのだろう?」

 

と うがった見方をしている ということだ。

 

この 非行少年のような 物の見方。

 

傷ついたものに特有の

傷つきたくないのに、わざわざ傷を増やすような方向の

見方をして、防衛するんだけど、

かえって、傷つくようなことを呼び込む視線・考え方・捉え方なんだ。

 

  ピラティスのレッスンが終わって

  トイレに入って、

  私は 泣いた。

  悲しみ。

  悲しみ。

 

 私は親に嫌われた!

 悲しい!

 と 感じていた。

 

 私がこどものころ、いつ感じたのか 覚えていない。

 だけど 感情だけが残っている。

 

 私は親に捨てられた!

 悲しい!

 

 と 感じた。

 

そして 家族として 一緒にすごしているけれど

愛されている訳ではないんだ、と思った。

そんな瞬間があったんだ。

 

本当は

愛されていたのに。

本当は

愛されているのに。

 

なにごとかあって、悲しくて

私は その悲しみを感じたくなくて

 

私の方から 拒絶したんだ。

 

私の方から 親の愛を拒絶したんだ。

 

私の方から 愛を拒絶したんだ。

 

そうして そのくせ 愛されたくて

 

その気持ちも自分で認めることができなくて

 

「どうせ、私のことなんか、どうでもいいくせに!」

と言う風に 怒りに転嫁させて

 

「どうせ 私のことなんか きらいなんでしょう?」

といううがった見方をして 心にブレーキをかけて

 

「どうせ 私は どこへ行っても きらわれる。」

「どうせ 私は 何をしても文句言われる。」

そんなひがんだ考えまで 暴走した。

 

でも その根っこの感情は

なにかで 悲しみを感じたことだ。

 

その悲しみを 感じたくなくて、色々な思考や妄想をこしらえて

頭のなかで どんどん疑惑を作り上げていったんだ。

 

・・・・悲しみは・・・感じて

・・・・しっかり感じて

・・・・涙を流して

・・・・そうだ、悲しかったんだね。

・・・・うんうん。悲しかったんだね。

・・・・うんうん。泣きたかったんだね。

・・・・涙。

・・・・うん、泣いたらいいよ。

・・・・泣いてしまえばいいよ。

 

悲しみの感情には ことばがありません。

 

ただただ かなしい かんじ を かんじる だけ。

 

 

わたしが わたしのそばに いてあげるから

おもいっきり ないて。

 

 

みぞおちの奥で かなしみが こみあげる。

 

しゃっくりあげる時の その場所だ。

横隔膜の 奥に 悲しみが こもっている。

 

かなしみを 感じて 感じて 感じていくと

そこが ふっくらとするのが わかった。

 

最後に 犬の遠吠えのような声が出て、

終わった。

 

 

しばらく、みぞおちを よしよし して 過ごそう。