第五部17話 お釈迦さまの遺蹟の話(インドな話2)
大阪の図書館にお釈迦様関連の調べ物の本を返却し忘れていたのを慌てて返しに行きました。
そのまま続けて歩いてTさんのお宅にお邪魔しました。
Tさんのお宅で、Tさんとお話をしている途中でTさんのパートナーのFさんが話に加わりました。
Fさんはインドに行ったことがある、というのでその話を聞かせて貰いました。
Yves Picq http://veton.picq.fr - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3780590による
Fさんは、お釈迦様が生まれた場所のルンビニと、お育ちになったカピラ城のあるカピラヴァストゥに行かれたそうです。
Fさんのお話はこんな風でした。
ルンビニは釈尊の四大聖地のひとつです。
昔から寺院跡があり、他にお釈迦さんが産湯をつかった池などがあったりして、世界中から仏教の信者や観光客の方々がよくお参りされています。
釈尊の四大聖地は、お釈迦さん(ゴータマさん)の人生に関わる大きな場所
です。
ここにお釈迦さんが育った「カピラ城」のあるカピラヴァストゥがないのが不思議だと思いませんか?
Fさんはルンビニーに行った後、カピラヴァストゥに行ってその理由がわかったそうです。
カピラヴァストゥ(カピラ城)のあった所は「廃墟」になっていて「荒れていた」のだそうです。
お釈迦様が生誕された所は世界中の仏教国がお寺を建てていて、お釈迦様がお生まれになったことを喜び祝い、感謝する気持ちを表しています。
それに対してお釈迦様がお育ちになったお城だって、お釈迦様が出家する下地や原因になった所なので、大事に「カピラ城」を復元したりしてもいいのではないか?と思います。
しかし、カピラ城はうら寂しい雰囲気がしたそうです。
カピラ国は近隣国に攻められて、そこの池は戦いで殺された人々の血で赤く染まった、と伝えられています。
お釈迦様は皇子として育っていくうちに、その時代、仕方のないことでしょうけれど、近隣の大国と我が国との間に相当ジレンマがあったことや、お父様シュッドーダナ王が近隣国に対して、どのようなことをして国を維持してきたか、と言うことを知っていて
「これはこの先、何をしても戦いが起こるなぁ。
よほど頑張っても、相当痛手を負うだろう。
自分はここで皇子として過ごして
後に王位を継承するより、
皇子を辞退して、
どうしたら人々(自分)が戦わずに平和に暮らせるか、
どうすれば人々(自分)が苦しみ渇望しないで生きることができるか
を探りたい」
と思われて出家されたのではないか。
Fさんのお話は心に締め付けられる感じがしました。
世の中には、遠い昔にどこかの民族の戦いがあったとか、多くの人々の流血の地となった、という土地もあります。
それでも長い月日が経って、いつしかそんな無残な過去があったとは感じさせない、明るい風土となる所も多いです。
頭で考えてみましょう。
2500年前に一国の皇子が国を捨てて出家し、その後そこの国が隣の大国に滅ぼされたとしても、2500年の月日の間には、時流が変わり、そこの土地が再び発展したりすることだってあり得ます。
しかし、
カピラ城跡のカピラヴァストゥは荒れたままなんだそうです。
「お釈迦様が捨てた、見捨てた土地」
と言う侘しさがあるそうです。
それを聞いた時に、私は
お釈迦様がカピラ城を出て行かずに戦ったらよかったのか、
それとも出家して戦わない道を選んでよかったのか、
と考えてみました。
お釈迦様関連の本を読んでいると、どうやらお釈迦様はカピラ城に帰っては、そこの男性を片っ端から出家させたらしいです。
その国に残っていたら戦いに参加してしまうから
(参戦して人を傷つける業から救うため?)
(参戦して痛い思いをして死んでしまうのを避けるため?)
お釈迦さんの持って生まれた業の深さというのを感じました。
お釈迦さんは弟子たちに言ったそうです。
「他の宗教、宗派の人々から喧嘩のようなことを消しかけられても、自分からは参戦してはいけないよ」
ということを言われたそうです。
その時代、戦い、他人のものを奪う生き方が当たり前だったろうと思います。
その時期に不戦と平和と平等に生きたのは凄い革命的で進歩的なことです。
その時代の「常識を超えた」概念で生きられたんだと思います。
Fさんのお話をお聞きし、その後も洞察を深め、「ブッダ」の動画を制作する意義を感じました。
参考動画 新説ブッダ04 「出家」
新説ブッダ04 「出家」 New therory”Buddha”04 Became a monk - YouTube
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