Smileゆり(柳澤由理)のはてなきブログ

魂と身体から自信を取り戻す・世界平和のメッセージ

第三部042話 追い出された!(元伊勢の始まり2)

天照大神さまが崇神天皇の時代に

皇居から外に出された(元伊勢の始まり)ことを、

本当は
崇神天皇天照大神さまを

粗末に扱い、そのうえに、
天照大神さまを追い出したのでは?

 

と 私が考えるのは、

 

ある本がきっかけです。

(その本にはそこまで書いてはいないの

ですが、私が天照大神さまの立場気持ちに

なってみた時に、そういう感じがしてくる

ということを書いています。)

 

参照にした本はこちらです。

 

國學院大学教授の茂木貞純氏の

「神宮と皇室」の本

伊勢神宮崇敬会叢書24)によりますと、

この鏡についてこのようなことが書かれています。

 

概要引用・・・・・・・・・・・・

 

(「神宮の創祀」の項より)

 

第十代崇神天皇の時、国内に疫病が流行り、

国民の大半が死んでしまうという危機が

起こります。

 

天皇は朝から晩まで必死に危機打開を

祈ります。

 

すると大神神社大物主神の祟りである事が

判明し、篤く祭をおこなうことで平安が

回復します。

 

これを機会に、これまで皇居の中にお祭りして

きた御鏡(天照大御神)を御所の外に祭ることに

します。

 

皇女の豊鍬入姫命に命じて大神神社の近辺にあった

とされる大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に

祭らせます。

 

・・・・・引用ここまで

 

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伊勢神宮(内宮)




これは「元伊勢」の始まりであり、

後の「伊勢神宮」に繋がっていきます。



大和の笠縫邑というのは、

大神神社から、山の辺の道を

歩いた所にある桧原神社です。
元伊勢のはじまりです。

 

「皇居の中にお祭りしてきた御鏡(天照大御神)を

御所の外に祭ること」にした、と書いてあります。

 

この時、鏡作神社に祭られている「石凝姥命

の子孫に鏡を作らせたようです。

 

 

一般には、

皇居の中にお祭りしていた

天照大神を皇居の外に出す方が先で

 

それから後に、

大物主神の子とも子孫とも言われる

大田田根子を探し出して神主として

大物主神を祭らせた神主とした。

 

三輪山御神体とする大神神社の始まり)

 

すると疫病は終息して五穀豊穣となった。

 

・・・という順番だと知られている。



実は、崇神天皇は疫病が流行り、なかなか

収まらないから、天照大神ではない

他の神の力を借りようとしたのではないか?

 

三輪山の神様の力をお借りするのはいいとします。

しかし、その時に天照大神は要らないような

気がしたのでしょうか?

 

(書いていて、私の首がおおいにうなずきます)

 

天照大神は「私のことは要らない神のように

冷たくあしらった」と言いたいようです。



さらに引用します。

概要引用ここから・・・・・・・・・・・・

 

平安時代斎部広成(いんべのひろなり)と

いう人が『古語拾遺』を書きました。

 

この人は朝廷の神事に奉仕する一族の当主でした。

 

正史である「日本書紀」に漏れてしまった伝承を

古語拾遺』に書き留められたそうです。



そこにはこのように書かれているそうです。

 

崇神天皇の時に、だんだん神の威を畏れ、

天照大神を御所の中にお祭りすることが安心して

できなくなってきました。

 

それで斎部の石凝姥命の子孫と、

天目一箇神の子孫を率いて、

鏡と剣を作らせて護りの御璽(おしるし)としました。

 

この時にまったく同じ鏡と剣を作らせ、

それを皇居の賢所に置いて、お祭りしている、

 

・・・・・・・・概要引用おわり

 

ということです。

 

その文章によれば、

崇神天皇天照大御神を皇居の外に出したがり、

鏡を作らせたのですね。

 

石凝姥命の子孫が

天照大神八咫鏡

それからまったく同じ鏡の二つを作ったのですね。

 

片方は皇居の外に出た天照大神三種の神器

ひとつとなり、

もう片方は皇居の中の賢所に置かれて、

毎日お祭りされてきたということですね。

 

「元伊勢」の始まりであり、

のちの「伊勢神宮」につながるんですね。

 

天照大御神さんと皇女豊鍬入姫命さんは

皇居から出て、初めに、今でいう桧原神社のところに

行かれたのですが、そこで数年はとどまったけれど、

さらに理想的な地をもとめて、各地をさまよわれます。

 

私は思うのですが・・・。


天照大御神さんは、傷ついたのではないか」

と思います。

 

続く