Smileゆり(柳澤由理)のはてなきブログ

魂と身体から自信を取り戻す・世界平和のメッセージ

世界平和第三部003話・秦氏に感謝

亀岡祭のサイトにはこのようなことが書いてありました。

 

昔、亀岡は大きな湖がありました。
(「丹波」という地名にその名残をあらわしています。
丹波」は赤い土と湖を現わした土地名です。)

灌漑工事をして保津峡に湖の水を流した結果、

亀岡は広い土地を手にして、そこで人々は

暮らすことができるようになった、

・・・と書いてありました。

 

さらに調べていくと、その灌漑工事をしたのは、秦氏であるということでした。

掘り込んで余った土をつみあげて、できたのが嵐山になったとか・・・。

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京都嵐山の大堰川から小倉山を眺める(ウィキペディアコモンズより)

(亀岡まつりの山鉾行事の歴史のページ

 

えええ?

桓武天皇平安京を作る時に、

灌漑工事ができる秦氏の力を借りて、
山城国を切り開いて、平安京を遷都した、ということ、

図書館の本で調べていくと書いてあったけど。

 

でもでも、今の嵐山の美しい景観は

元々あぁいう地形だったのではなくて、

秦氏の力があったからなのか!

 

子供の頃、家族で保津峡にハイキングに行って、

すき焼きを食べて楽しい思い出があるのですが、

その保津峡秦氏の力が働いているのか。

 

そんな事一個も知らなかった。

 

もしかしたら、京都が今日、

このように観光都市として発展しているのは、

1200年以上前に秦氏という西側から渡来して

帰化した秦氏という集団の力が

あったからこそなのではないか?

 

それだったら、歴史の教科書にもっとそこは言うべきではないか?

 

それに秦氏の存在は平安時代の初めの頃だけで、

あとは存在感が感じられない。

 

もしかしたら、その時代特有の

「力のある人、功績のある人」なのに、

反対勢力から疎んじられて、

天皇に逆らおうとした」という濡れ衣を着せられて、

島流しとかになったのではないだろうか?

 

太秦広隆寺の「太秦」というのは

聖徳太子の「太」と秦氏の「秦」の字とが

組み合わさったものだと聞いたことがある。

 

聖徳太子も、実は功績のある人で、

本来なら自分が天皇になっていいくらいの

人だったのに、一族もろとも殺された

という話を聞く。

 

秦氏は日本の西側から流れてきた民族であると聞く。

 

そういう海外からきて帰化した人の力を、

その頃いっぱい借りて、

それが日本の文化の基礎を作ったのだけれども。

 

まるで、そんな力なんか、借りませんでした

というような顔をして、昔の歴史を見直さないで、

今の私たちはのうのうと暮らしている。

 

先祖が苦労して敷いてくれたレールがあるのに、

そのおかげで生きてこれたのに、

そんなものしりません、って顔して

子孫が生きているかのような感じがします。

 

一年に一回でもいいから、秦氏にありがとうって言おう

 

京都が観光地として成り立つのも、

私たちがお酒を飲めるのも、

衣を着られるのも、秦氏のおかげではないか。

 

秦氏がいなかったら、世界中から

京都に観光客が来なかったかもしれない、じゃありませんか。

 

秦氏に感謝する日、というのがあっても

いいかもしれません。

続く