第二部100話(お釈迦様2)「お釈迦様のお人柄」
「お釈迦様のご真骨」が収められているという
「泰安堂」までMKさんと二人で歩いて行きました。
もう一つの敷地の入り口には白い石碑があり、
「釋尊御真骨泰安塔」と字が彫られていました。
釋尊というのはお釈迦さまのことですね。
境内を奥に進むと拝殿のようなものがあり、そこから先は行けないように柵がしてありました。
拝殿から眺めると一つの門のようなものがあり、その門ごしに「泰安塔」と思われる建物の一部が見えました。
柵の手前のところに立ち、塔の方を眺めて
「あー、あそこにお釈迦様のご真骨があるんやねー。近くまで行きたいなぁ」
と思ったところで、「あ、いや、まてよ」と思いました。
「2500年以上前にお釈迦さまが亡くなられ、
長い年月を経て、今現在の日本で、
お釈迦さまのご真骨のある近くまで来ることができた、
というのは、非常にありがたいこと、奇特なことだ。」
と思い直しました。
今、ここに自分がいられることの恵まれていることを感じ、
その幸せを思って手を合わせて祈りました。
すると、「とても可愛らしい心」というのが伝わってきました。
「汚れなき童心がそのままある、幼心の君」とでもいうような感じです。
もしかして、お釈迦さま、ゴータマ・シッダルタさんは
本当に純粋に知りたかっただけなのかもしれません。
「なぜあの年老いた人は杖をついて、歩きづらそうにしているの?」
「なぜあの人達は身体が痛そう。病気? 身体の具合が悪いってことなの?」
「なぜあの人達は泣いているの? それにあの布に覆われた人は? 人は死ぬの?」
「苦しそう・・・この世になぜ苦しみがあるの?」
と純粋に真理を知りたかったのだろうなぁ、と思いました。
お釈迦さまは奥さんもこどももいたけれど、全てをすてて出家した、
という話ですが、その純粋さのあまり、
いてもたってもいられなかったのだろうなぁと思いました。
自分はどれだけ衣食住が満たされていて、優しい家族に取り囲まれていても、王宮の外側には苦しむ人々がいる訳です。
その未知の世界を探求したかったのだろうなぁ・・・。
なんとなくですが、
奥さんが嫌だったというのではないような気がします。
自分が出て行っても、家族は家族同士で幸せに暮らしているから、
そこに意識は向いていないと思います。
そこまで可愛らしい、純粋無垢な心って、本当に、赤ちゃんと同じような純粋さです。
私は仏陀の生涯について聞かされた時に
「奥さんとこどもを捨てて家出か!」と思って、
すこし「許せない気がする」と思っていました。
でも泰安塔の拝殿で手を合わせて、「幼心の君」ともいうような可愛らしい心にふれて、私はすべてを許していました。
ふと目を開けた時、拝殿の柵のところに、
綺麗なピンクの造花の花かざりがお供えされているのが目に入りました。
「あぁ、なんて可愛らしい!」
そうまさにこの花がそのまま人になったかのような、そんな心を感じました。
その「心」というのは、しいて言えば・・・
人を疑うことを知らない。
疑うよりは研究する、思索する、という感じ。
決めつけるよりは、色々なシチュエーションを想像して、
相手の立場を考えてあげるような感じ。
ひとの心を思いやってあげられる、器がある。
邪推して近寄ってきた人は、おもわず自分の浅はかさに恥じ入るだろうと思われる。
人を許して、受け入れ、それでいて、本当のことはちゃんと言う人。
・・・そんな感じがしました。
☆
日泰寺で、奉安塔の拝殿の前に立ち、
お釈迦さまのご真骨を想い、
お人柄をしのぶことができて、
幸せな気持ちになりました。
(第二部終わり、次回から第三部になります)
(今回までお読みくださり、ありがとうございました。
第三部も続けて書きますので、よかったらこれまでと同じく
おつきあいくださいませ)