Smileゆり(柳澤由理)のはてなきブログ

魂と身体から自信を取り戻す・世界平和のメッセージ

世界平和第二部066話 桓武天皇って(たたってない1)

昨年(平成30年・二〇一八年)、

西日本に地震、台風をはじめとする天災が

山のように次々起こっていた頃、

私は図書館で一冊の本と出会いました。

 

『神社の系譜~なぜ神社がそこにあるか』

宮元健次著・光文社新書)です。

 

(この本については『世界平和とシンクロニシティの不思議 中巻 ~隠されたものが顕れる時』の終わりの方にも書いています。合わせてお読みください。)

 

昔は天災が起こったり疫病が流行ったりすると、

なすすべもありませんでした。

 

時の政府や天皇からうとんじられ、

政治的な思惑で無実の罪を着せられて

流刑されたり殺されたりした人というのがいます。

 

その方々は憤死して怨霊となり、天災や疫病が流行ると考えたそうです。

 

それで御霊(ごりょう)さんとしてお祀りし、お慰めすることにより、

災禍からお守りいただこうと、当時の方々は考えたそうです。

それで御霊会(ごりょうえ)を行うようになりました。

 

八六四年に神泉苑で御霊会が行われ、

その伝統を京都の神社(特に上御霊神社下御霊神社)は

引き継いでいるそうです。

 

怨霊となった貴人とは政治抗争の中で

冤罪(不実の罪)を被り非業の死を遂げられた方々です。

 

菅原道真公の事は有名ですが、それ以外に

怖がられた存在としては

桓武天皇の弟の早良(さわら)親王さん(崇道天皇)のことが書かれていました。

 

ここで少し書いておきます。

 

「崇道」の「崇」は「崇拝する」の「崇」(山+宗)です。

それと良く似た字で「たたり」は「祟り」(出+示)と書きます。

・・・似ていますが、違う文字です。

 

 

社会の教科書に「桓武天皇」のことは

平安京を作った人」ということと、

平安京を作るまでは歴代の天皇は、都をあちこちに作り、遷都していたが、

桓武天皇平安京を作ってから、京の都は千年の都となり、安定した」

という風に習った覚えがあります。

 

それで「桓武天皇。へぇ、偉いんやねぇ」と思っていました。

 

ところが、調べていくと、とんでもないことが出てきました。

 

桓武天皇平安京を作る前に、都を平城京から長岡京に移したそうです。

 

桓武天皇は新都造営を命じ、

藤原種継(たねつぐ)という人が中心となって

その長岡京の造営工事に取り掛かりました。

 

ところが翌年、この藤原種継が暗殺されてしまいました。

 

取り調べの結果、十数名が捕縛されて斬首となり、事件に連座して数名の者も流罪となりました。

 

それだけではおさまらず、桓武天皇は、同腹弟の早良親王が「事件の黒幕!」と思い込んだようです。

 

早良親王は「親王」を取り消しとなり、乙訓寺に幽閉されました。

それから淡路に流刑されることとなりました。

 

早良親王は、無実を訴えるため絶食し、流刑地に送られる途中、

河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市高瀬神社付近)で

憤死したそうです。

 

その後、早良親王の祟りが起こったそうです。

 

桓武天皇の身辺では死や病気が相次いで起こり、天然痘も流行ったそうです。

 

まず、早良親王の代わりに新しく立てられた皇太子、安殿親王が発病しました。

 

(調べてみると、元々身体は弱かったらしいです。

 でも桓武天皇が亡くなった後、無事に平城天皇として即位されました。)

 

それから桓武天皇の奥さん方が三人と、

桓武天皇早良親王の母が亡くなりました。

 

(そりゃあ、お母さん、つらかったと思いますよ。

我が子の兄弟が大の大人になって、

ええ年して「兄弟喧嘩」するんですよ・・・。

兄ちゃんの天皇が弟をやっつけて、死なせてしもたんですよ。

お母さんとしては胸がつぶれる思いがするでしょう。

「自分の育て方が悪かったんやないか」

「どうにかしてお兄ちゃんを止められへんかったか」

と自分を責めたりするんやないでしょうか。)

 

それから、長岡京のあたりで洪水も二回起こりました。

水害に弱い地だったそうです。

 

長岡京遷都の工事がはかどらず、身内の方が病死されたりで、

これは「早々と早良親王の祟りである」と噂されたそうです。

 

桓武天皇早良親王の鎮魂の為に「崇道天皇」という位を与えて、天皇についたことにしたそうです。謝り祈ったそうです。

 

そして、長岡京造都にとりかかり、十年たってもできませんでした。

このままでは、自分は天皇の器がない、ということを

民衆に言われるのではないかと恐れたそうです。

 

それで長岡京遷都からわずか10年で、

「山背(やましろ)」に遷都することにしたそうです。

(それが平安京、京の都の始まりです)

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こんにちの京都のシンボル 東寺の塔

山背は、土木分野で実績のある、秦氏の本拠地なので、秦氏の力を借りることにしました。

(遷都の詔の時に「山背」を「山城」という字に変更)

 

造都が中途半端であるということだけでなく、桓武天皇は本当に「早良親王の祟り」がこわかったようです。

 

でもその時期、天然痘が流行したということだから、それは祟りとは違うのではないかと思います。

しかし、その時期すべての出来事は易八卦で調べて決めるという時代でしたから、占いで「早良親王崇道天皇の祟りだ」と出たのでしょう。

それも致し方ないのかもしれません。

 

昨年の夏から秋にかけて、これらのことを調べた時、「呼ばれた感」がしませんでした。

それでそのまま置いておくことにしました。

 

それがふと、「呼ばれた?」と感じたのは、それから丸一年たって、今年の五月、令和元年になってから二週間ほどした頃です。

 

というのは、つづく