第三部066話 冷静で温かな視点で(日本人の知らない恩2)
近所にできたスリランカ料理のお店
RASAPIRI
(インスタグラムはこちら )
で教えて頂いた・・・・
『戦後の日本を慈悲と勇気で支えた人
スリランカのジャヤワルダナ大統領』
https://amzn.to/3jSA6ve
(野口芳宣よしのり・著 銀の鈴社)
という本には、このように書かれていました。
日本は一九四一年に東南アジア地域に対して「大東亜共栄圏」というスローガンを掲げて「東南アジア地域・諸国は、欧米の植民地支配に従うのではなく、同じアジアの日本と共に力を合わせて栄えていこう」と呼びかけた。
その頃、日本はアジアの中のただ一つの独立国であり、かつて日清・日露の二つの戦争に勝っていたから、長い間欧米のひどい植民地支配に苦しめられてきた現地とその周辺国には、このスローガンは「きっと、日本が欧米の宗守国(そうしゅこく)に対して、自分たちとともに戦い、解放・独立に導いてくれるものだろう」と映り、歓迎されたところがあった。
ところが、日本は、その年の十二月、太平洋戦争を開戦すると「大東亜共栄圏を!」と呼びかけていたにもかかわらず、東南アジア地域・諸国を次々と戦略し、占領していった。
しかも、その支配は、独立を認めず、また住民の独立運動などを抑えつけ、おまけに欧米の植民地政策のもとでそれなりに出来上がっていた経済のしくみも破壊したので、結局は欧米の植民地政策と変わらないもの、あるいはそれ以下のものになっていった。
日本はこの戦争を「大東亜戦争」と名付けていた。その戦争のもくろみは、アジア大陸の満州・朝鮮・中国・東南アジアからインド・西太平洋の島々までを占領して国土を広げ、支配下に収めて、食料増産を図り、資源と労働力を確保し、国力を増し、・・・というものだった。
これに対して、そうはさせまいという「敵」つまりアメリカをはじめとする連合国は、この戦争には必ず勝って日本をこうしてやろうとねらい、戦後処理について考えたり相談したりしていた。
戦後の日本を分割して統治する案というのがアメリカ軍部の中で発案された。
北海道・東北区域ーーソ連
東京ーーアメリカ・イギリス・ソ連・中国の四カ国による共同統治
関東・中部区域ーーアメリカ
近畿区域ーーアメリカ・中国
中国地方・九州区域ーーイギリス
四国区域ーー中国
沖縄ーーアメリカ
(『米国の日本占領政策 上・下」
五百旗頭 真(いおきべ まこと)・著 中央公論社より)
J.R.ジャヤワルダナ大統領は、一九五一(昭和二六)年九月のサンフランシスコでの講和会議で、各国代表の出席者に向かって日本に対する寛容と慈悲を呼びかけ、賠償請求権の放棄を宣言しました。
そして敗戦当時、アメリカ、中国、ソ連、イギリスの主張する「日本分断案」に真っ向から反対しました。
この勇気ある演説が口火となって、独立した自由の国、日本の戦後復興の第一歩が踏み出されました。
日本人として忘れてはならない、ジャヤワルダナ大統領の演説の主旨をここに書きます。
とても冷静で、かつ温かな視点で自由と平和な日本になるように、と訴えられています。
続く
第三部065話 日本分断統治計画(日本人の知らない恩1)
家の近くの スリランカ料理店ができたという話を
宇治のコミュニティで知りました。
店の名前はRASAPIRIと言います。
(RASAPIRIのインスタグラムはこちら)←リンク飛びます
主人と二人で食べに行くことにしました。
「スリランカ料理って珍しいよね。
インド料理、タイ料理とかネパール料理は
食べに行ったことはあるけど。
あと 紅茶とかも聞いたことある。」
とか話しながら歩いていくと
店の前に到着しました。
いくつかのディナーの中から一つ選んで注文しました。
スリランカ料理は思ったよりあっさりとしていて、美味しかったです。
どこかしらインド料理と中国の漢方料理の中間のような感じがしました。
テーブルの上には「スリランカ」のガイドブックが
置いてありました。
風光明媚って言葉があてはまるような
綺麗な写真が載っていました。
「シロラーダ」という額に温めたオイルを垂らす療法を
してくれる所も紹介されていました。
そうだ、これはアーユルベーダの療法の一つ。
(アーユルベーダというのはインド、スリランカに
古代から伝わる「伝統医学」です)
初めのお皿がきて、食べ終わった時に
給仕さんがまた別の本を私の前に差し出しました。
見てみると、
どぉーんと立派な、貫禄のある方の写真の表紙で
『敗戦後の日本を
慈悲と勇気で支えた人
スリランカのジャヤワルダナ大統領』
(野口 芳宜 のぐちよしのり・著
銀の鈴社)
リンクを貼りつけておきます。
興味がある方はどうぞ
「戦後の日本を慈悲と勇気で支えた」
っていうのはどういうこと?
と思って中を開いて見ました。
すると、驚くことが書いてありました。
・・・・
第二次世界大戦で日本は負けました。
聖戦だとか色々なことを言っても
アジア諸国を破壊しまくったことは
変わりありません。
その敗戦の時、日本列島は細かく分断されて、
色々な国が統治することになっていた、
というのをご存知でしょうか?
(日本分断統治計画
ウィキペディアのページへ↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%88%86%E5%89%B2%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E8%A8%88%E7%94%BB)
分断統治計画の地図
https://news.yahoo.co.jp/articles/4554ec19f0b6c69e21d3496700e255dba4363e72/images/000
私は「日本は分断されずにすんだ」というのは知っていますが、
どういう風にして、分断されずにすんだのか、は
知りませんでした。
もし、分断統治されていたら、その後、
日本という国はなくなっていたかもしれません。
つづく
第三部064話 満面の笑みが導く(宇治の清掃奉仕2)
Sさんの呼びかけに応じてお掃除に参加し出すと、
第一回目は「こんなに捨てやがって」と、ぷりぷりしていました。
真夏で暑かったせいもあると思います。
三回目の今回は、掃除しながら、宇治川沿いの美しい景観に心が洗われました。
そして怒りは出ませんでした。
一時間くらいで宇治川を一周して、お掃除はおわりました。
参加者のみなさんと、喫茶店のモーニングをいただきました。
会にモーニングを入れているのは、参加者同士和やかになり、コミュニケーションがとれること、お掃除の疲れを癒せながら、お掃除したご褒美を自分で自分にあげられること、などがある、とSさんがおっしゃっていました。
なるほど、と思いました。
喫茶店でモーニングを食べお喋りをし、解散となりました。
そのあとのことです。
私は宇治橋を渡り、初めの京阪宇治駅前の交差点にたどり着きました。
その宇治橋を渡っている途中から、不思議な事が起こりました。
からだの奥から、なにかがわいてきて、ひとりでに顔が動くのです。
宇治橋を渡り切った時には、満面の笑みになっていました。
実際にはマスクをしていたので、私が満面の笑みになっていることは誰にもわからなかったと思います。
奥から湧き出てくる満面の笑みを感じきっていると
ふと視線は足元にいき、タバコの吸い殻とジュースのパックのゴミをみつけました。
気が付けば私はトングとビニール袋を出して、ごみを拾っていました。
満面の笑みを感じきっていると、気がつけばお掃除を一人でもくもくしていました。
無心でした。まるで座禅のような気持ちでやっていました。
マスクの下の満面の笑みをしたまま、宇治駅の前から自宅までの道のごみを掃除しながら帰りました。
自宅の前までたどり着いた時、ちょうどゴミの日の前日だから、集めたごみをそのまま出せばいいことに気づきました。
家に帰ると、服を着替え、洗濯機にスイッチを入れて、そのまま1時間寝てしまいました。
そんなに疲れていると感じなかったのですけれど。
疲れていたのでしょうね。
心地よい眠りでした。
目が覚めたらお昼前でした。
その日一日中、なにかわかりませんが、体のどこか、頭のどこかが「明るい」ような感じがしました。
お掃除など「善行」をすることが、その人を護るのかもしれませんね。
他人や社会のためにしているのですが、同時に自分の為になっているのかもしれません。
そういえば
Sさんはお掃除の会のよびかけをする前から、自主的にお掃除をされていたんだっけ
と思い出しました。
それを思うとSさんは素晴らしいなと思いました。
続く
第三部063話 宇治川沿いの掃除(宇治の清掃奉仕1)
友人Sさんからお掃除の会のお誘いがきました。
それは月に一回(大抵土曜か日曜の朝)、Sさんを中心に有志が集まって、宇治の町のお掃除をいっしょにする、というものです。
その時のお誘いは確か三回目。私は一回目から参加していました。
Sさんのよびかけに、遠隔地の方は、それぞれのご自分の地の周辺のお掃除をする、という風な形で参加されたりもしているそうです。
お掃除奉仕の会は「感謝クリーンDay」という名前です。
Sさんはその会を開く前から自主的にいつも通る道に落ちているタバコの吸い殻や空き缶などのゴミを拾っておられたそうです。
Sさんは一人で掃除をしているときりがなくおわらないので、誰かと一緒に時間を決めてやろう、と思われたこと、
それからミネハハさんの「ありがとう地球」という歌を聴いて「あぁ、地球に恩返ししてないな」と思ったことも「感謝クリーンDay」を始めるきっかけになったそうです。
今回は、そろそろ秋で観光シーズンなので、宇治川沿いの道をお掃除しておくといいかなぁという風に、コースが決まったような感じです。
京阪宇治駅前で集合したら今回はご高齢の参加者の方が加わって、なんと6名。
いちばん高齢な方は93歳の年齢だったと思います。
なんでも、この方はSさんとお会いした時は杖をついておられたそうです。
ところがヨガで元気を取り戻し、今は杖なしで歩いておられます。
宇治川の東側沿いに歩いて行き、宇治神社の前まできたら朝霧橋を渡り、宇治市の鵜の小屋の前を通って、また宇治川の西側沿いの道を辿って、宇治橋まで戻るコースでした。
このコースは観光客の方のためのお店もあるため、お掃除がわりといきとどいていました。
清掃のリーダーSさんからごみの落ちている箇所というのを教えて貰いました。
1、商品を巻いているプラスティックのフィルムは、捨てられていると
遠めでもそこだけ「きらっ」と光っているのでみつけやすいこと
2、喫煙者がタバコを吸いながら、ここで一服したくなる、
というような場所に落ちているということ
3、ゴミを捨てる人は、ごみを捨てる時、
ゴミをわからないように隠したいので
無意識に隠すのに良い「茂みや水際」に寄ってくる習性があるそうです。
2と3のことから
ベンチの下や裏側にゴミが落ちている可能性は高いということ。
道端であれば、排水溝のまわりにゴミが落ちているということ。
でした。
確かに某アニメで話題になった「久美子ベンチ」と呼ばれるベンチのあたりにもゴミが落ちていました。
Sさんの呼びかけに応じてお掃除に参加し出し、気づいたことがあります。
続く
第三部062話 お掃除で気づいたこと(内宮古殿地清掃奉仕5)
内宮の御正宮の古殿地でお白石の上にいっぱい杉の小枝や葉が落ちていました。
お白石が敷き詰められているところから、にょきっと桧だか杉だかの木の若芽が伸びているところがありました。
案内人は説明しました。
「これはこのまま放置しておくと、こーんな大きな木になってしまいます。
ここは時期がきたら、また新しい御正宮の建物を建てるので、大きな木が生えてしまったら困ります。
ですからこれは抜いてしまってください」
参加者の笑いを誘いながら、掃除のあらましを説明してくれました。
掃除を始めました。
はじめは懸命に、白石の上にふりかけたように散らばっている木の枝葉を拾っていました。
30分ほど経った時に休憩しました。
その時、私は気づきました。
私はずっとリュックを背負ったまま、掃除をしていたのです。
リュックは足元に置いておけばいいのに、そんな事に全然気づかず、集中して掃除していました。
リュックを足元に置いて、掃除の後半時間になりました。
私は掃除のやり方を変えることにしました。
お白石の上にちらばっているものを拾うだけでなく、お白石をどかして、その下に入り込んでいる、将来芽を伸ばすであろう芽というか種のような事を拾って、お白石を元に戻す、という作業をし始めました。
その作業をしているうちに、これが私のセラピスト根性の現れだ、と気づきました。
上辺の掃除をある程度したら、その下部にあるものを取り除く。
つまり、人の話を聞いて「こういう事で困っているのですね」と受け取ったら、
それだけで終わらず、さらにつっこんで
「その現象が起こっているのは、どういう心理が原因なんだろう?」
という、隠された原因、心の奥の気持ちを知ろうとする・・・。
セラピストとしての「奥に隠されたもの」を目指し、根本治癒となるように、という職業病?のようなものが、ここで現れたなぁ、と思いました。
それだから偉いとかそういう問題ではなく、
なんか、そうしたくなる、というのがあるなぁと思ったのです。
掃除が始まって一時間が経った頃、案内人が戻ってきました。
参加者のみんなで集まり、掃除していた所をふりかえった時、
お白石の敷いてある場所がきれいになっている、と感じました。
掃除をしている間は、
「あそこにゴミがある、あぁ、あそこにもある、ここにもある」
という風に見ていて、
まだまだ掃除が足らないと感じていました。
それでも、離れてみたら、初めより綺麗になっていました。
その時思いました。
掃除を始める前に、「うわぁ、いっぱいある」と思いましたが、
掃除をしていると、それなりに綺麗になっていくのですね。
完璧を求めていると、「まだまだ」ですけど
でも客観視すると「進歩、進化」したということがわかります。
私は今まで完璧を求めていたんだなぁと気づきました。
完璧を求めているんだ、とその時は気づかないのです。
「これくらいやって当たり前なんだ」と思って自分を追い込んでいるのです。
どれだけたくさんのやることがあっても、やってみたらやった分だけ進んでいるんですね。掃除だって、掃除した分だけ綺麗になります。
そう考えたら、途方もなく多いことに取り組む時でも、それなりに進歩したことを受け取れるなぁと思いました。
そんな風に考えたことは今までありませんでした。
今回の内宮の御正宮の古殿地のお掃除研修は、私にとって、これが気づきであり、天照大神様からの大きな祝福だと思いました。
続く
第三部061話 御正宮だけで胸がいっぱい(内宮古殿地清掃奉仕4)
約半年ぶりの伊勢神宮へのお参りでした。
朝早く、外宮の御正宮にお参りし、ご挨拶すると、あらたまった気持ちがしました。
内宮のお掃除奉仕の集合時間がせまっていたので、荒御魂をお祭りしているところには行かずに、戻り、内宮付近までタクシーで行きました。
集合して、グループ全員で内宮の御正宮参拝(普通参拝)をし、そこから午後の集合時間まで自由時間ということになりました。
多くの方は荒魂をまつっているところや、内宮のなかのいろいろな所へお参りされたかと思います。
しかし、主人と私は、御正宮だけで、胸がいっぱいになり、「もうここだけでいいよね、それよりどこか空いている所で休憩しよう」ということになりました。
宇治橋を渡ると、多くの方は右へ曲がり、おはらい町、おかげ横丁に向かって歩くところです。
しかし、私達は「あのように、人が多い所へ行くのはしんどい」と思いました。
お参りも、神宮の門前の雰囲気も、だいぶんとコロナ前のにぎわいに戻っていました。
あれもこれもとあちこち行くのではなく、御正宮だけのお参りで十分満足しました。
朝の集合場所に向かって歩き出してすぐの大きいお土産屋さんに入りました。
そこはうそのように空いていました。
伊勢の地元の水をつかった美味しい珈琲がたった200円だったので、主人と二人で飲みながら休憩しました。
ちょっと早い目かなーと思いながら、午後の集合場所に行き、お昼ご飯を食べて、それから御正宮の古殿地の掃除奉仕の集合場所に行きました。
みんな、白装束に身を包み、両手は軍手をはめて内宮まで行きました。
宮司さんと思われる案内人の方のあとを行進して、いつしか、普段の参拝では入れない所を進んでいき、御正宮の古殿地にたどり着きました。
宮司さんのお話では、四人の人が古殿地の掃除の担当になっているそうです。
コロナの影響で今年はよく掃除ができた、というお話でした。
つづく
第三部060話 柱のセミ(内宮古殿地清掃奉仕3)
宇治からバスに乗って近鉄電車に乗り換えて、
伊勢市駅に到着しました。
宿泊のお宿は駅のすぐそばの和風の旅館にしました。
そこは磨き上げられた木の温かさが、ほっこりするとてもよい旅館でした。
階段にせよ、お風呂にせよ、そこにいるだけで気持ちがよくて、
何から何まで「おこしやす」の心が伝わる旅館でした。
今まで私は旅行の時に、こういう和を感じる旅館はあまり使わず、
ビジネスホテルのような所に宿泊することが多かったので、
「もっと早くこの旅館を使えばよかった」と後悔したほどです。
お部屋は空間がゆったりとしていました。
敷いていただいた布団はほどよいふくよかさで、
温かく包まれていると感じる布団でした。
それは主人と結婚して最初の旅行で、
湯郷の温泉旅館に泊まった時のことを思い出させました。
この時、結婚にむけての準備で疲れ果てていました。
ふたりでこの先どうなるか、わからなくても、
この旅館にだけは泊まろう、と思って出かけた時の
ホテルのベッドの布団とまくらは最高の安眠熟睡をくれて、
夜12時前に眠って、翌朝10時前まで寝てしまいました。
そのときの感じに近い感じがしました。
最高の綿を使って作られた布団のような感じがしました。
翌朝、心のこもった朝食をいただき、支度をして旅館を出ました。
まず外宮さんの御正宮にお参りと思いましたが、
旅館のすぐ前に、小さなその地域を護っている神社がありました。
安眠熟睡のお礼に、その神社をお参りしました。
すると、伊勢神宮の外宮、内宮の御正宮の御垣内に
しきつめられている白石に似たような石が境内に敷かれていました。
「これは、まるで御正宮の御垣内参拝・・・」と思いました。
安眠熟睡のお礼を申し上げました。
そこにはお稲荷さんもありましたので、お参りしました。
すると、その柱にセミの抜け殻が!
とても珍しいことではないか、と感じました。
蝉は3年から7年もの間幼虫の状態で土の中にいて、
土から出て成虫になって1カ月だけの命だそうです。
長い期間土の中にいて、地表にはいでて、
たまたまかもしれませんが
神社の柱にとまって成虫した、だなんて、凄い話ですよ。
もしかして、
地面の中にもぐっているかのように、
アンダーグラウンドみたいな気持ちで
鬱人生を生きてきた人が、
ふとある時に、そこを抜け出て、
神さまのお導きで、殻を破って心の羽根をひろげて
そこから思いっきり生きる、ということだってありえますよね。
私達も過去をぬぎすてて、心の羽根をひろげて、
生きたっていいのですね。
暗い過去があった、という人はきっとそれは幼虫の時代だったのかもしれない。
今は、羽根をひろげて、飛び立ったって良いんだ。
そんな風なことを思います。
それから外宮へ向かいました。
つづく