世界平和第二部13話 ひとを動かすのは(興聖寺1)
高野山に行った時の出来事は私にはとても大きいことだったようで、翌日は伸びていて、昼過ぎてからでないと起きられませんでした。
そのまた翌日、私は京都の上京区にある未公開のお寺・臨済宗の興聖寺(こうしょうじ)に来ていました。友人の画家渡邉敬介さんの絵の展示があり、そのお手伝いのためです。
(宇治市にも興聖寺というお寺がありますが、それは曹洞宗で、同じ名前ですが、別のお寺です。)
興聖寺では昨年(2018年)の台風で蔵が壊れてしまいました。蔵には大事な「一切経」がそのまま保存されていて、早く修理しなければいけません。
その蔵の修理費を集めるための勧進企画として、渡邉敬介さんが興聖寺で東日本大震災復興を描いた100mの大作絵巻を展示していました。
渡邉さんは2011年に東日本震災が起こった時、1995年の阪神淡路大震災で支援に行った時の記憶がよみがえり、「震災は人ごとじゃない。何かしなければ」と思われたそうです。
半年後「ともかく現状を見てこよう」と福島県いわき市に行き、その時の印象を作品にして大阪で個展を開かれたそうです。
それから、渡邉さんは震災から1年半後の2012年9月に、再び導かれるように、仕事の休みを取って、東北に飛んで行かれました。幅広の長さ100mの巻物の和紙を4つに切って、25mの巻紙4本と最小限の画材だけをかかえて行き、東日本震災被災地の復興の絵を描かれました。
私は昔、よく外でスケッチをしていました。だから屋外でスケッチをするというのがどれくらい大変なことか、知っています。渡邉さんはそれを100mの巻紙(25mの巻紙4本)にその場でリアルに描きまくられたのですから、驚きです。
「これを描きなさい」と神仏が告げたのでしょうね。
私はふと
「一枚一枚の絵ではなく、なぜそんな大きな巻紙を持っていかれたのかな?」と思い、お手伝いの合間に、渡邉さんにそのことを尋ねました。
渡邉さんは答えました。
「はじめに東北に行った時、『一枚一枚絵を描いている場合じゃない』と思ったからです。
それに今回が巻紙に描くのは初めてではありませんよ。
2010年にドイツに行った時も宿舎に30mの巻紙を先に日本から送って描きました。」
「ドイツに、というのは?」
と聞くと、返ってきた答えに驚きました。
「2007年にビナ・バウシュさん(世界的舞踊家・振付家)が京都賞を受賞した時の舞台を見て、楽屋におしかけ、
『バウシュさん、あなたの出世作の『春の祭典』のリハーサルを描かせてください』と書いたドイツ語の手紙と私の画集を渡して直接申し込みました。
そしたら10日ほどしてバウシュさんから
『どうぞ来てください。』とメールがきました。
バウシュさんは日本でいうと人間国宝レベルの人です。そういう人の舞台練習に入らせてもらえて描かせてもらえるというのは普通考えてありえないことだと思います。
それを聞いてみんなびっくりしていましたよ。
実現したのは、バウシュが亡くなって一年後の2010年になってからです。
ドイツに飛んで、バウシュの振付していた舞踊団の『春の祭典』の通し稽古の絵を一か月ほどスケッチしました。稽古場にはいつも赤いバラがガラスの一輪挿しに活けてあり、そこがバウシュさんのいつも座られる席でした。」
・・・壮大な話でした。
渡邉さんは世界的な器だと思いました。
渡邉さんの話は続きました。
「ボランティアのスタッフの協力で10日間のスケッチ旅行ができたのだけれどね、スタッフから『被災地を絵に描いて役に立つのか?』と何度も問われました。直接的な労働もしていない画家が『役に立つのか?』と思い悩みました。」
がぁーん。確かにそうだよなぁ。被災地のボランティア作業ではなく、絵を描くという行為を選ぶのは、勇気がいることです・・・。
私は頷きながら聞いていました。
「ある仮設住宅では『心のケアお断り』と表札のところに書いて貼ってあるの。善意の心のケアの訪問でも、被災地の人にとっては迷惑なこともある。私自身『こんな時に何を絵に描いているのだ』と悩みました。」
私は息をのんで聞いていました。渡邉さんの話は続きました。
「それでね、気仙沼市のうどん屋でうどんを食べていた時そこにいた人から『どこから来たの』と聞かれてね。『京都から、絵を描きに』と答えました。すると『ご苦労さんやなぁ。それなら明日の朝早くに漁港においで』と言って漁港の『許可カード』を貸してくれました。その人は地元の缶詰工場の社長さんでした。」
「うわぁ、許可証を貸して貰えて、よかったですねー。」
「はい、そうです。その言葉が本当にありがたかった。『絵を描いていいんや』と思いました。背中を押してもらった感じがしました。」
真実、人を動かすのは、心なんだなぁ、と思いました。
相手の心に響く「真の行動」をしている人は
実は「人」を動かしているんじゃなくて
「人の心」を動かしているんだ、と気づきました。
だからこそ、バウシュさんは渡邉さんに「どうぞ来てください」とスケッチを許可し、気仙沼の缶詰工場の社長さんは渡邉さんに漁港の『許可カード』を貸してくれたのでしょう。
私は渡邉さんのお話に深い感動を覚えながら、展示のお手伝いをしていました。
展示会にはこういうこともありました。
続く
参照
「月刊京都」 2015年6月号(767号)
『わが青春は京都に~思い出の場所をたどる
うまずたゆまず、多くの人に支えられて』
渡邉敬介氏の手記記事
「人権と部落問題」2018年3月号(909号)
『随想 10.100.1000
~芸術なんかくそくらえ』
渡邉敬介氏の手記記事