Smileゆり(柳澤由理)のはてなきブログ

魂と身体から自信を取り戻す・世界平和のメッセージ

小さな幸せ 小さな不幸

私は子どもは生まれなかったが

お腹に宿っていた期間

瞬間瞬間が

その子との語らいの時だった。

 

自分に子どもが生まれたら

それはさぞかし、

私はせっせとお洋服を作って

あげたり、おっぱいをあげたり、

離乳食を作ってあげたりしていた

と思う。

 

それは叶わなかった。

 

代わりに

と言ってはなんだが

私の所にきてくださる方々の

心の悩みをお聞きして

 

その悩みがどうしたら軽くなるか

寄り添いながら、

その人の問題だけれど

わがことのように受け取り、

捉えていく。

 

私は私のセラピーを育てていく

のかなーと思った。

 

私はきてくださる方々の

心の成長を見守る

と言う点もあるのだけれど

 

私は私のセラピーを育てる

と言う点もあるんだろうなーと

思いました。

 

そうしてみると

母はあれだけ忙しいにも

関わらず、よくぞ仕事の合間に

三人の子どものワンピースを

作ってくれたんだよなぁー。

思うと

 

感謝しかない。

 

不足を感じることはあっても

それはもう、致し方ないこと

だったんだ。

 

そう思います。

 

私が大人にならないと。

 

私は子どもの頃

すねまくっていた時に

心のなかに不幸と言うものを

抱えていた。

 

自分の心を見つめ直していくと

小さな幸せに気づく感受性が

育っていった。

 

そうすると

自分を認めていける。

 

「こんな自分、

どうして認められるんだー」

と思う方。

自分自身の認め方

自分自身の受け入れ方が

わからない人は是非ご連絡ください。

 

 http://form1.fc2.com/post/?id=110640

二人の女性3 聖子と明菜

A子とB子。

二人の女性の 幼馴染で腐れ縁の友達関係を

紐解いていっています。

「もう少し整理してみましょうか」

紙に絵を描きながら説明しました。

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   ↑B子         ↑A子

こうなっています。

 

 

注意
「明菜百恵タイプ」というのを
「明菜タイプ」にまとめます。

 

聖子が ハート   明菜を ダイヤに 例えます。

 

ハートのクィーンと ダイヤのクィーンが います。

 

ハートのクィーンは 本当はダイヤなのだけど

「ハートがいいんだぁ!」と言って、

ハートのマネをして ハートの仮面をつけていますが

本当は ダイヤのクィーンです。

 

ダイヤのクィーンは 本当はハートのクィーンなんだけど

「私はダイヤで生きるんだぁ!」と決めて

ダイヤのマネをして ダイヤの仮面をつけていますが

本当は ハートのクィーンです。

 ・

B子

この図の真ん中の線から下は 本当の姿です。

(黄)ハート仮面のクィーンは 実質は(赤)ダイヤなので、

目の前にいるダイヤのクィーンがにせものだ!と

かんづいていて、ヤイヤイ言います。

A子

(黄)ダイヤ仮面のクィーンは 実質は(赤)ハートなので

目の前にいるハートのクィーンがにせものだと

感づいていて、あんたおかしいと言いたくなります。

ここまで説明した時A子さんは

「うんうん、わかる」と言いました。

「そうなんだぁーー。だからふたりで

 やりあいっこしていたんだぁ!」

私は言いました。

「これ、ここで注目してほしいのは

水面下の『本当の姿』はふたりとも気づいていない

っていうことです。

「え? どういうこと?」とA子さんは

尋ねました。

「例えば B子さんは実質ダイヤ(明菜)なのに

 ダイヤ(明菜)的な自分がイヤで、

 ハート(聖子)をめざしておられたんでしょう。

 同じように

 あなたも ご自身がハート(聖子)的なのに

 自己価値の低さから それを受け入れられなくて

 私は絶対にダイヤ(明菜)だぁーーーと磨いていかれた。

 本当の自分を知らなかったのです。

 それはふたりとも本当の自分を知らなかったのです。」

A子さんは うなづいていました。

「そうそう、確かに私は先生に言われるまでは

 自分には聖子タイプのひとかけらもないもの、

 って思い込んでいました。」

「そう。ですから

 それはそのままよく見れば、

 互いの良さを知っていたともいえます。

 無意識かもしれませんが」

と言いますと、

A子さんは「え? うそ! 私とB子は

 喧嘩ばっかりしていて 互いの良さなんか

 知っていませんよ。互いの悪いさばっかり

 知っていますよ。」と言いながら腕を組みました。

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「A子さん、あなたはおっしゃいませんでした?

 B子さんのアイドルみたいなふりを見て、B子らしくない、と

思われたんでしょう。

そしてB子さんの良さは自然体で 言いたいことを言う時の

パワーをそのまま出すことである、と知っておられますね。

あなたA子さんはB子さんのもともとの持ち味である、

明菜さん的なあり方を、あなたは目指されました。

B子さんはあなたをみてどこかで聖子的なものを

本質的にもっているものとしてとらえていました。

聖子さんになりたがったB子さんはどこかで

あなたの本質的な聖子さん的なところを認めていた

のだと思いますよ。

頭では認めたくないのかもしれませんが、

潜在意識では、あなたもB子さんも互いを

互いの魅力を認め合っていた、

だからこそ

羨ましくて、やりあいっこしていた

ということに

なります。」

そう申し上げましたら、

A子さんは、整理しつつ驚きつつ

言いました。

「え! わたしはB子が 互いに認め合っていた!

 え! わたしとB子は 互いに羨ましがっていた!

 だから

 わたしとB子は 互いにやりあいっこしていた、

 っていうことなの?

 本当は互いに

 思いが交差していた、

 認め合いながら、羨ましがりながら、

 足のひっぱりあいをしながら

 こうしたらいいのよ、と 言っていた?」

「私の見立てでは

 そういうことになりますねー」

と言いましたら、

A子さんは

「それじゃあ、いままでB子と二人

 仲が悪いようないいような、

 不思議な関係だったのは

 そういうことだったのか」

A子さんは「しばらく考えてみる。」と言って

その場から立ち去りました。

その後A子さんから季節のお便りのはがきが

届きました。

その中にこういう一筋がありました。

「先生、先日はB子と私の関係のこと

 話してくださり、ありがとうございました。

 あれは こたえました。

 先生の話だと、わたしの方こそB子にジャッジ

 しているんだよ、ということなんですね。

 それを自覚したとたん、B子があまりわたしに

 きびしく言わなくなりました。そしてわたしも

 わたしはわたし、B子はB子の生活があるんだ、

 という当たり前なことに今頃気が付きました。

 先生、どうもありがとうございました。」

 

 

 

 

最後に

この記事は似たケースが数件あるものを

混ぜてひとつの物語として作り直したものです。

フィクションですけど、いくつかの実話をもとにしたものです。

ですからA子もB子も架空のものです。

二人の女性2 聖子と明菜

A子さんがぐちをこぼす、

幼馴染で腐れ縁の友達B子の話から

思いもかけない話題が出てきました。

前記事では

A子さんはB子さんからずけずけと言われて

傷ついてきた、というのです。

そして

物事をはっきり言う

しっとりドスの利く明菜百恵タイプのB子は

ふわふわぶりっこの聖子タイプをめざしていて

なりきれないでいるようだ、

ということでした。

そこで私はA子さんに尋ねてみました。

「それじゃあ、A子さん、あなたはどうですか?

 あなたは松田聖子さんに憧れるとかそういうのは

 ありましたか?」

A子さんは言いました。

「そうねー、私は聖子ちゃんに憧れたけど、

 聖子ちゃんになるのは無理~~と思いました。」

(ほぉー、だから「松田聖子をめざすB子」

 に対して辛口になる訳だ!)

 と私は内心思いました。

A子さんは なおも続けて

「それでね、私は明菜ちゃんと百恵さんの唄を歌って

 ちょっと どすを利かす風な、雰囲気のある

 歌い方をマネしてみたりして。(笑)

 聖子ちゃんにも

 明菜ちゃんにもなれる訳ないわよねー

 ましてや百恵ちゃんになんてなれる訳ないない」

と言いながら笑っていました。

それで、ふっと気がついたことがあって

A子さんに確認してみました。

「A子さん、

 あなたは聖子さんをめざすのをやめて

 明菜さんをめざされたんですね。

 でも明菜さんにはなれない、と言われましたね。」

A子さんは「はい、そうです、馬鹿みたいですけどね」

と答えました。

私はちょっと切り込んでみました。

「A子さん、それでB子さんは

 あなたにうるさいんだと思いますよ。」

「え? どういうことですか?」

とA子さんは尋ねました。

「A子さん、どっちかと言うと

 あなたは 明菜タイプではない、聖子タイプです。」

と私が言うと

A子さんは「えええええええ!」と驚きました。

「A子さん、あなたは

 お花畑にいる少女タイプですよ。」

と言いますと、驚かれていました。

「いいですか、整理してみます。

 A子さんは聖子さんタイプなのですが、

 自覚しておられません。

 そして明菜さん百恵さんを目指されました。

 一方

 B子さんは明菜さん百恵さんタイプなのですが

 自覚しておられません。

 そして聖子さんを目指しておられます。」

A子さんは言いました。

「そうなるんですかー。私が聖子ちゃんタイプだなんてー」

私はA子さんに言いました。

「はい、A子さんあなたの雰囲気は つっぱりの明菜タイプ

 ではなくて、『赤いスイートピー

 お花畑の聖子ちゃんの雰囲気ですよ。」

A子さんはびっくりしていました。

「え、そうだったのーー。

 そしたら、私は私のままでよかった

 って言うことじゃないのーー。

 高校時代、中島みゆきさんの根暗な世界とか

 浸ったり、明菜のどこかしらつっぱりの

 どうせ私が悪いんでしょ、みたいな世界に

 浸ってたのにーー。

 聖子は無理だと思っていたのに、聖子タイプだなんてー!

 高校時代、暗い世界で悶々していたのは、何だったのーーー?」

その気持ちはわかるーー。わかるなー。

と思ったが、それは横に置いといて

A子さんに 切り込んでみた。

「A子さん、あなたとB子さんはお互いにやっていたのよ」

「え? 何をやっていた、というのですか?」

とA子は尋ねました。

(これ、まだ続きます)

二人の女性1 聖子と明菜

いつもみていて腹が立つ相手

いますか?

・・・・・・・・・・・・・

人は自分の写し鏡と言います。

ちょっと複雑な鏡です。

・・・・・・・・・・・・・・

数年前のことです。

ある女性Aさんが

「私、いつも腹が立つんよ」

というので

「誰のことですか?」

と聞きましたら

「友達のB子」

と答えました。

そのA子さんと友達のB子は

幼馴染の腐れ縁の友達なんだそうです。

互いにけん制しあっているそうです。

はっきりと目に見えてジャッジしてくるのはB子で

A子さんはB子のパワーに押されて

嫌なことは嫌と言えないのだそうです。

それだったらB子との縁は切ったらいいのでは?

と思うのですが

なぜかA子さんはB子に呼ばれると会いにいったり

してしまうそうです。

少し話をお聞きして

なんとなくつかめました。

A子もB子も独身アラフォー同士。

立場が似ているもの同士で

一緒に遊びにいったりするのだけれど

B子の歯に衣着せない言い方で

「あんたはそこが駄目なのよ」とつっこまれる

たびに傷つく、というのです。

B子さんは

いわば 昭和のアイドルで言えば

中森明菜スタイル」ですね。

つっぱり、と言いますか

はっきりしてるんですね。

そしてA子さんは 話し方とか

立ち居振る舞いが「松田聖子スタイル」

と言いましたら、

A子さんは

「そう! B子は本当に中森明菜タイプ!

 百恵さんのタイプと言ってもいい。

 ところどころ

 話し声に どすが利いてる!」

と 大喜びです。

A子さんが持っているという

B子の写真数枚を見せて頂きますと

「あれ? 明菜っぽいけど、聖子路線?」

と 思いました。

B子さんの写真が何枚かありましたが、

ぶりっこ聖子路線の演出をしているのです。

その中で1枚だけ「明菜っぽい」ものがありました。

「これは?」と聞いてみました。

A子さんはこれを見て、

「あぁ、これはB子本人は気に入ってないけど

 まわりから好評な写真、ということで

 『あんた、どう思う?』と聞いて送ってきたの。」

と答えました。

それから声をひそめて

「だけどね、実は これが一番彼女の普段の表情を

 出している写真なんよねー。

 ほかのいかにもお姫様~の

 ぶりっこしてるのとは違うでしょ。

 これが彼女の普段のよさなの。

 明菜タイプなの。

 しっとりしてるから百恵タイプともいえる。

 本人はこれが気に入らないみたいなんだけど。」

と言いました。

それを聞いてわたしは言いました。

「A子さん、あなたは

 B子さんのよさを理解しているんですね」

A子さんはびっくりしました。

「え、なにを! いつも喧嘩の一歩手前で、

 仲良くなんかないんですけど!」

「まぁ、そうかもしれませんが。

 あなたはB子さんが本質的に中森明菜もしくは山口百恵みたいな

 しっとりしていてどすが利いてるタイプ

 だと見抜いていて、

 でもB子さんはどこかで自分がきらいで

 ふわふわの松田聖子さんタイプになりたいと思っておられる。

 あなたはB子さんが聖子ちゃん的なぶりっこされるのを見て

 『そんなの柄じゃないよ、

  あなたはあなたのまま行きなさい』と言いたいんですね。」

A子さんはそれを聞いて

「そう! そうなの! なんでカメラを向けられると

 ひと昔のアイドルみたいに、目をぱちくりとあけて

 きらきらお姫様~! てやるんだろう。と思っていたの。

 そのままのよさがでているこの写真もいいじゃないの、

 って思ったの。」

と言いながら しっとりした写り方のB子の写真を指差した。

そうか、思った通りだったか。と思った私は

A子さんに もうひと押し言ってみようかと思いました。

「それなら、A子さん、あなたもですよ。」

これ、続きます。

「言いたいことは言っちゃだめ!」と思っている「いいひと」の皆さんへ

職場にも 友達関係にも

「いい人」って います。

「いい人」がいるから

職場が回っている

ということもあるにはあるのですが・・・

でも

その「いい人」は

ずーっと、ずーっと、そればっかりやっていて

ひとのミスの尻ぬぐいとか

ひとに頼まれたことを しんどいなぁと思いながら

どんどん引き受けていく。

「この人、これでは困るなぁ」とか

思うのだけれども

言えないでたまっていっちゃう。

そうすると「いい人」の寛容性が

限界に追い込まれていくんです。

・・・・・・・・・・・・・/’ぅ(TT)

 

「いい人」は 声をあげられなくなります。

いいよいいよ~と言って、我慢してしまいます。

 

「いい人」は 自分の疲労感にふたをして

どんどん疲れをためていきます。

 

「いい人」は 自分の人生やからだを

他人のためにすべてを捧げて尽くし、

自分のためには なぁんにも受け取りません。

 

「いい人」は疲れに疲れても 休めないので

家庭で 意味もなく ヒステリックにふるまって

しまいます。そうすると「家庭」が壊れてしまいます。

 

「いい人」の皆さん、

どうか、お願いです。

おうちでは きちんと休んでください。

そうして 自分に栄養をあげてください。

 

家の外で それがお仕事なんだ、と言っても

はりきりすぎないで

頑張りすぎないでください。

 

言いたいことを言う練習をしてください。

 

そうすると 「いい人」の皆さん、

 えええ! って 驚くのです。

 

え! 言いたいことを言ってはいけないんじゃないでしょうか!

言いたいことをそのまま言うと、人間関係が壊れてしまうのではないでしょうか!

 

そうおっしゃるのです。

 

確かに そう言いたくなる気持ちもわかるのです。

 

「言いたいこと」が
ネガティブだと思うとそうなりますねー。

 

「言いたいこと」や「感じていること」は
ネガティブとは限りません。

 

あまりに我慢し続けているひとは

自分の中にある気持ちや感情は

ネガティブ一色だ!

思い込んでしまいます。

 

気持ちのいいような、ポジティブな気持ちでさえも

「こんなことを言っては、相手が気にするだろうから」

と心配して、なぁんにも言わないのです。

 

ネガティブもポジティブも言わないのです。

マイナスになることを言わない代わりに、

プラスになることも言わなくなります。

 

それで

試しに マイナスに思っていることや

過去の 親に言いたかった わがままな一言も

言ってみるといいです。

 

受け身側としての言葉としては

こういうのがあります。

「お父さん、本当はね、僕はそれ、したくなかったんだよ」

「お父さん、僕はちゃんと言ってほしかったんだよ」

とか

「お母さん、美味かったよ」

「お母さん、なでなでしてほしかったの」

とかです。

 

受け身ではなく、自分からする側の立場になっての言葉では

こういうのがあります。

「本当はね、お父さん、ぼくは大好きだと言いたかったんだ。」

「本当はね、お父さん、ぼくはお父さんに認められたかったんだ。」

とか

「お母さん、わたしもやれる!と所をみせたかったんだ」

「お母さん、わたしはお母さんのためにやりたかったんだ」

とかです。

 

シンプルな感情のことばだったら

「私は 悲しかった・・・」

「私は 泣きたかった・・・」

「私は 腹が立つんや」

「私は 腹が立ってる!」

「私は こわい!」

「私は こわかったんや」

「大好き!」

「嬉しい!」

などです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

先日のセッションでも

我慢し続けてきた方が

言うに言えない気持ちを

胸のなかに封印してこられた、

という方がいらっしゃいました。

 

それで イメージの中で お父様に向かって

わがままを言うように 促してみました。

 

ぃゃぃゃ、それは、ぃぃぇ、それは、と

ご遠慮されていましたが

 

「相手に直接言えるようにするために、

これをするんじゃないです。」

と言いますと

 

   え? と言う顔をされました。

 

「胸の内側にたまっているのを

出すためのものなのです。」

と言いますと

 

   そうか、それやったら・・・

   と安心されて

 

「お父さん、それは手伝いたくなかったんや。

 手伝うの、イヤやったんや」

と 話されました。

 

「話されて、お父様のご様子はいかがですか?」

と尋ねますと

 

その方はにこにことされて、

  「はい、ニコニコしています」と答えられました。

 

その方の胸の中のお父様は ニコニコされていて、

  たぶん、口に言えなかった思いも 

  お父様はわかっておられたんだろうなぁと

  いうことです。

 

そこまで来た時に

少しずつ会話や言葉や思いについて

質問していきました。

「反対に言ってもらいたかったことってありますか?」

とか

「言ってもらいたいのに、言われてない!って思うこと、ありますか?」

とか

探っているうちに

 

本当の自分の初心が思い出されたようでした。

 

ご自分で

「あーーー、そうだったんだぁーーー!

私は、本当はこういう思いで始めたんだぁーーーー!」

と 感動されていました。

 

「言いたいことを言ってみる」をセッションでワークとして

する時は

「言いたいことを言う」ことが「できるように」

というのが狙いではなくて

「言いたいこと」を言いながら

「本当に言いたいこと」は何か?

「本当にしたいこと」は何か?

「本当に言ってもらいたいこと」は何か?

本当に相手からもらいたいと思っているものはなにか?

「本当に欲しいもの」は何か?

 

「本当の自分の気持ち」は何か?

ということに気づいていくための ワークなのです。

 

出して出していく。

つぶやいてつぶやいていく。

そうして ほろっと出てくるのが本音。

最後に 出てくるのが 本当の気持ち。

 

それが出てきたら、もう 言葉はいらない!

に なるんですねー!

家族の座 その3 座敷ワラピーちゃんの服を編む

きらきら からだ通訳カウンセラー

トラウマ解放セラピスト 柳澤由理です。

 

「家族の座」について 2つ記事を書きました。

今記事はその続きで 3つ目になります。

 

いままで玄関先に置いていた

ピンクの 座敷ワラピーちゃんに

寝室に入れてあげて、

毛糸で編み物をして服を編んであげました。

 

毛糸で編んでいる時、

結婚して 子どもがお腹に授かって

その子にしょっちゅう話しかけていた時のことを

思い出していました。

 

その子は

「身体が大きくて

 お父さんにそっくりになるんだー」

と自慢げに言っていました。

 

生まれていないのですが、お腹の中の子と

心で会話していました。

 

胎児以前の段階で、胎児になりきれずに

自動的に流産してしまったのですけれど。

 

流れる日の昼間まで話していて、

ふっと会話が途切れて

夜に流れてしまいました。

 

その時 まるで産むときと同じように

陣痛がくりかえしやってきて 流れてしまいました。

 

その時 苦しかったけれども あまり泣きませんでした。

それ以後 まる一年は本当に苦しかったけれども

あまり涙を流しませんでした。

 

ピンクのぬいぐるみを わが子のように見て

毛糸の服を編んであげる時、無心になって

編んでいる自分をみて

 

あぁ、私のことだ、生まれていたら

ぜったいお洋服のいくつも作ってあげていただろうなー

毛糸でお帽子とか色々とまめに編んであげていただろうなー

 

 

そこまで思った時に主人が帰ってきたので

ピンクの座敷ワラピーちゃんに着せたのを見せて

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 あぁ、なんて 可愛いらしいことか・・・。

 

そして

主人に

これこれこうで と 説明して

 

「私はあの子が生まれたら 絶対編んであげていたと思う。」

と言ったら

主人は

「そうだね。あなたのことだから編んでいたでしょうね」

と答えてくれました。

 

その時

あの子に 編んであげたかったなーーーーーー。

という気持ちがわいてきたら、

 

その後、どんどん気持ちがわいてきました。

 

 

あの子を 抱っこしたかったなーーーーーー。

 

あの子に おっぱいあげたかったなーーーーー。

 

あの子を 時々主人に抱いてもらったりしながら

二人で「可愛い可愛い」と可愛がって育てたかったなーーーー。

 

あの子が 夜泣きしても よしよしと言いながら

あやしてあげたかったなーーーーー。

 

どんどん涙があふれてきました。

 

7年以上たっているし、普段は忘れて過ごしているのです。

頭の中にも置いていないのです。

 

多分つらすぎるから 切り離して 忘れて過ごしている

んだと思います。

 

だから 流産したあと 苦しんだけれども

あまり 泣いていない。

もっと泣けるのかもしれないけれども

 

日常を過ごすのに 邪魔になるという風に

思ったのか、

 

切り離すようにして 過ごしてしまいました。

 

 

泣く時は もう ことばじゃない。

切り離された、奪われたという感じ。

 その時の想い、状態は

 言葉にならないけど

 あえて言葉にしてみたら

 「返せーーーーー!」という感じでしょうか。

 

悲しみという言葉でもないみたい。

 

 

今、これを書きながら

しみじみと しみじみと 感じるもの。

くめども つきぬ想いは ことばにならない

失ったような、失った訳でもないような

奪われた感もするが 奪われてない感もする

 

 

親子の絆は切れるものではない。

あの世にいっても切れるものではない。

  と スピリチュアルカウンセラーの江〇さんは言うてはったなぁ・・・。

    なるほどなぁ。

 

 

生まれなかった子の魂は

あの世で幸せだと

思うけれども

私と主人の 深い潜在意識の中で

「子」の存在というものは 確固たるもので

ゆるぎなく存在しているんだ、と認識しました。

 

 

 

だから

年賀状に子どもの写真を載せるおうちの気持ちが

わかった と 思いました。

記憶イメージの中の若い頃の母に喋らせてみた。

きらきら からだ通訳カウンセラー

トラウマセラピストの柳澤由理です。

      ***

一昨年の11月の終わり頃に

価値観がすごく変わったというか

自分の人生って何やったん? ということがありました。

それはこれです。↓↓↓

 

archives.mag2.com

 

こどものころ、さんざん、夫婦喧嘩を見てきた両親が

ほんまは 仲が良かった、ということを聞かされた時、

「はぁ? なにだってぇ~?」と思いました。

それを聞いてから1年と2ヶ月が経って、

ふと それを思い出しました。

        *

もし、夫婦仲がよかったんなら、

母が 父の愚痴を しこたま 私に話していたのも

真にうけなくても よかった、ということなんやなー。

        *

そこの記憶の部分は まだ固定しているから

私の頭のなかで 記憶を変えてみようか、と

思って、

ちょっと 昔の母を思い出して みました。

        *

若い母が 出てきて

「ゆり、あんた、昨日パパのことを怒って

 『パパみたいな人と結婚したらあかんで!』

 って 言うたんは、あれ、忘れてなー。」

と 言わせてみた。

すると

 記憶イメージのなかの こどもの私は

「えぇえぇーーー!」と えらいびっくりしてる。

 

  そらそうやろなー

 

記憶イメージのなかの 若い母に さらに言わせてみた。

「あれはな、昨日、ふたりで喧嘩してたんや。

 それで そんなこと言うたんや。

 ほんまは、パパはいい人やし、一番信用できるし、

 ほんまは、優しいんや。よぉ働いてくれる人やし

 いい男やでー。」

 

記憶イメージの中の 小さい私は めっちゃ混乱。

「えぇえええぇ! ほんなら 心配せんでもえぇんやな」

 

記憶イメージの 若い母は にこにこ笑顔。

「そうやで。心配せんでもえぇんや。

 心配させてごめんなー。

 パパとママは 仲良しや。

 パパはみどころのある、いい男や。」

 

記憶イメージの 若い母と小さい私は うきうきと楽しく

という感じで イメージは消えた。

 

すると脳が思考停止状態になった。

 

母がさんざん父の愚痴や悪口を私に言っていたものだから

私は 父が大好きでありながら どこか信用してないの?かも?

っていう感じがあったのだ。

 

それを 書き換えてみたら 脳のなかの記憶や思考を司る部分が

いつもとは違う情報がきたことで 混乱し、思考停止状態になった。

 

実際に うちの親は こどものまえで「仲良し」を見せられない

というようなところがあるらしいので。

(照れ屋なんだそうな)

 

昔、喧嘩して怒っている母が激しく言うことばは

インパクトがあって、こども時代の私の脳裏に

強く焼き付けられてしまった。

 

そういう場面もあったかもしれない。

でも

そういう場面ではないところも多々あるのだ。

覚えているのかもしれないが、

記憶の倉庫の奥に入り込んでいるんだろうな。

 

記憶の倉庫にはセンセーショナルなものが

週刊誌の表紙や スポーツ新聞の見出しみたいに

取り出しやすいように 置かれている。

 

本当に大事な情報は センセーショナルなもの

ではない。日常的に重ねられている日々の経験だ。

それは地味な記憶で ベーシックなものだ。

 

それは 私と言う人間の存在感とか 雰囲気から

醸し出されるんだな。

記憶の深い森の奥の木の一本一本なんだ。

 

もう脳の記憶の浅いレベルにある、センセーショナルな

ものに惑わされないで、じっくりとしっとりと日々を

生きてきたうちに重ねられた、毎日のご飯のひとつひとつ

のようなものの 力強さを 引き出していきたいと思う。