Smileゆり(柳澤由理)のはてなきブログ

魂と身体から自信を取り戻す・世界平和のメッセージ

河合隼雄さんがタクシーに乗ると・・・

あけましておめでとうございます。

からだ通訳カウンセラー トラウマ解放セラピストの

柳澤由理です。

 

 

      ☆彡

はてなブログは 私の中では

マニアっくな深い目のブログ

ということにして分けています。

       ☆彡

昨年12月に図書館で

「そういえば昔河合隼雄さんの本を

よく読んでたけどまた読んでみよか」と

借りてきました。

何冊もあったのですが、体がこれを読め!

と言ったのが三冊。

「生きたことば、動くこころ」

河合隼雄の カウンセリング教室」

「こころと脳の対話 河合隼雄茂木健一郎の対談」

の三冊です。

このなかで 度肝を抜かされるほど 驚いたのは

茂木健一郎さんとの対談の本「こころと脳の対話」(潮出版)です。

         ☆

河合隼雄さんが茂木さんに語ったことが ビックリ仰天!の

えええええええええーーー??????

ということでした。

         ☆

驚かされることは いくつも 書いてありましたが

その中で 驚くべきことは これです。

         ☆

 第二章の 箱庭と夢と無意識 の章のなかで

河合隼雄先生はタクシーに乗ると、運転手が突然

身の上話を始める、ということがあるんだそうです。

         ☆

茂木さんが「へぇー それは面白いですねー」と

返されましたが、お話を伺っていると、それは

尋常ではないものが ある、と感じられたようです。

         ☆

河合隼雄さんが言うには

私がタクシーに乗るでしょう。すると

  「私は、本当は別の仕事をしていたんですよ」とか

  話し出すんです。それで僕が「へぇ~」とか言うとね

  ブワーッと話が続いてきてね。それで曲がり忘れたりね(笑)

  まるっきり違うとこに行ってたりするんです。

  それでメーターを倒して「ここからタダで行きますから」

  とか言って(笑)

  そのあいだ、もうずっと、身の上話。

         ☆

私は へぇええぇ、そうか、やっぱり運転手は

お客さんが河合隼雄さんや、て、わかってるんとちゃうかなー、

と思ったら 茂木さんがうまいこと、そこを本の対談で

質問してくれてはって。

         ☆

茂木健一郎さんの質問

河合先生って わかってのことですか?

河合隼雄さんの答え

いやいや、全然知らんのです。

茂木健一郎さんのつっこみ質問

わからないで、なぜか身の上話をするんですか。

河合隼雄さんの答え

うん、しゃべりたくなってくる。

  だからこの頃タクシーに乗る時は怖い顔して乗ってるんですよ(笑)

  ちょっと意識してね。

  そうじゃないと、うっかり なんかちょっと

  「ふんふん」なんて相づちすると、

  ブワーッと 始まっちゃうから。

茂木健一郎さんの質問

その相づちとか口調ひとつで? すごい話ですね。

       ☆彡 ☆彡 ☆彡 ☆彡

       ☆彡 ☆彡 ☆彡 ☆彡

  これ、すっごい話。すっごい話。すっごい話。

  (くどい? ごめんなさいね)笑

            ・

人っていうのは、生きていて身体があるから、

その体をみて、あ、誰々さんだ、と わかります。

 でも 実際は

身体だけ じゃなくて その人がひとりそこにおられたら

その人の在り方が その周りに醸し出されます。

その人の雰囲気とか オーラとか 空気とか 無意識とかが

くっついて その「場」を作り出します。

            ☆

    河合隼雄さんの場合は

    河合隼雄さんのまわりの空気に

    人の話を聞く という 場(field)が

    もうできあがっている、ということなのですね。

            ☆

だから、

ある人に会ったら なんか知らんけど

元気がでてくる、とか

ある人に会ったら なんや よー知らんけど

歌いたくなってくる、とか

ある人に会ったら なんか 知らんけど

一言 言いたくなってくる、とか

色々 ありますよねー。

             ☆

私は 子どもの頃

自分がどうか、ではなく、

相手の空気のなかにある 要求にこたえて動いていました。

でも それは 相手の意識の自我での要求とは違っていたので

どうしたものかなー と 思っていました。

意識レベルの要求は 言葉をつかって、の、話になるのですが

私は難聴だったので、言葉をつかった話は聞こえなくて

相手の無意識の要求に 答えたりしていたのです。

     その結果 相手がイライラして どこかに怒りをぶつけたかったら

     私がミスをして、相手のイライラが解消されるように、と

     いうことをして。

     でも、本当のところ、イライラをぶつけて無意識のレベルで

     お礼を言われても相手本人の意識は「おまえはだめな奴」

     と思うのだし、私は馬鹿にされるし、

     散々な結果になりました。

     無意識というのも 浅いレベルの無意識に動かされると

     ろくなことになりません。

     もっと深い意識のレベルに合わせると

     落ち着いていられるのですが。

             ☆彡☆彡

     それより意識の強さ、自我をしっかりさせることが

     私には大事なことだったのです。

     今は、相手の無意識のレベルの要求にこたえる

     というような危ないことはしていません。

              ☆彡

河合隼雄さんの本に書いてあった、凄いことは、他にも

あるので、またそのうちに 概略だけでも紹介します。

          ☆彡 ☆彡

今年は セッションをどんどんやっていって

スカイプでの 個人的セミナー6回コースなども

開催するつもりです。

どんどん 皆様のお役にたてるように していく

つもりです。

どうぞよろしくお願い致します。

古いタオルは捨てる

私は生まれ育ち京都の

京都人である。

 

京都人は物を大切にする。

 

古くなったものも大切にしてる。

だから古都千年の歴史があるとこに

住んでる誇りなんかもしれん。

 

そやけど

タオルはもう変えたらいいよ

メッセージがきた。

 

13年以上使ってるのや

中にはもっと長く使ってるのが

ある・・・。

 

色とか柄が気に入って使ってる。

 

でもタオルは消耗品だ。

 

どこかで私は

私に、

新しい、綺麗なのをあげると

勿体ない

と思うようになった。

 

タオルは顔を洗って拭いたりするんだから

新しいのをおろせばいい。

 

くたびれたのをいつまでも

ケチケチ使ってると

人からケチつけられるんかも。

 

下着もタオルも消耗品やから

新しいのに変えよう。

 

こんなん

当たり前なことかもしれへんが

 

物を大切にしてきて

その物をいつどこで買ったとか

誰から貰ったとか

ずっと覚えている私には

結構思いきったことだ。

 

 

洗って使って洗って使ってきた。

 

古いタオルは雑巾に使ってから

捨てよう。

 

自分で自分に

みすぼらしい者への

扱い

みたいなことは

もうやめよう。

固い背中の感情 2 背中とみぞおちの奥の悲しみ

前記事からの続きです。

f:id:yulilove:20161228150159p:plain

(はじめて はてなブログのお絵かき機能を使って描いてみました)

この動きをするのですが、みぞおちの奥とか

背中の真ん中のあたりが固いのです。

       *

いままで色々なボディワークをやってきても

背中をまるめるのは、苦手で

それ以外のところはそこそこ柔らかいのに、

そこだけが固いので できないエクササイズとかありました。

       *

ピラティスは身体のコアを鍛えるエクササイズ

なので、この動きやこれによく似た動きが

よく出てくるのです。

       *

しかも筋トレ的に動かすので、めっちゃ、苦手なものにチャレンジ!
って 感じなのです。

       *

今日は、この動きをやっていると、

講師の先生が軽く手をひっぱってくれたら、すっと

上体を起き上がらせることができました。

   軽く、で、できました。

   今までは、しっかりとひっぱって

   もらわないと 起き上がれませんでした。

       やっぱりひっぱってもらわないと

       起き上がれないというのは同じですが

       前より筋肉が鍛えられて柔らかになって

       きたという点は 上達してきた感! あります。

       *

その時です。

ふっと どこからともなく

こんな考えが浮かんだのです。

     *****

   *********

     *****

      ***

       *

それは

 わたしはきらわれてないやろか

です。

       *

え?

どういうこと?

何の 脈絡もない 考えですよねー。

ピラティスの動きと 何の関係もないのです。

       *

仰向けから起き上がりのエクササイズを

繰り返しながら、

それが 軽くひっぱってもらって起き上がれたり

うんうん、うなりながらの時も 色々あって。

   それを ただひたすら やっている時に

    急に

     幽霊の囁きのように

      「わたし、きらわれてない、やろかー?」

       という考えというか

       頭の声がしてきた。

        *

その瞬間、体の感覚が消えて

頭の声が「きらわれて、ない、やろかー」

と こだまする。

「どうせ・きらわれて・る・やろー?」

と 言葉にならない声がする。

もぉんもぉんもぉんもぉん と する。

       ***

     *******

       ***

        *

あ!!! これが 筋肉のなかに

こもっていた、過去の、ある時点の、私の思考だ!!

        *

そう 気づいた時、

すぐに 体の感覚が 戻って

「きらわれて・ない・やろかー」という考えが

消えた!

        *

そんな「疑い」に似た「考え」をもつには

その根っこに 何かの感情が あったはず!!!!

        *

何かのネガティブなことを考えつくには

感情があったはず!!

もともと 根本に ネガティブな感情がないことには

そんな けったいなことを 考えつくはずがないから!

       ***

      *****

       ***

        *

そのもとになった、基本的な「感情」は?

        *

     *******

       ***

        *

    そう自分に尋ねたら

   まったく普通の状態に戻り、

 

   他にもこれでもかこれでもかと

   腹筋や 脇腹の筋肉を 鍛えるエクササイズが

   あり、わりとすぐにレッスンは終わった。

         *

        ***

         *

「き ら わ れ ・ て ・ ない ・かー?」

という 頭の声が こわかったのだが、

それは

昔から自分がどこに行っても

どのグループに所属しても

潜在的に 考えていた、感じていた

不安感 だった。

 

小学生の時に いじめられた・と・思った。

(いじめ は なかった らしい。

 私の中で あれは いじめだ と 思ったのだが

 いじめ は なかったのだ。

 この「いじめはなかった」の認識は こちらを見てください。

    ↓↓↓↓

  いじめ消滅? (鼻と私は 別) – 自然体に生きる ビー・ナチュラル

 

その頃から 私のなかに できあがった

感情というか考えというか疑惑だ。

 

「私は ここに いていいのだろうか?」

ということを思うこと。

 

その居場所がない感のもとになったのは

 

「わたしは きらわれて いないか?」

(きらわれている のでは ないか?)

と 見る見方だ。

 

そうやって、私のまわりの人を

わたしを攻撃する人はいないか?と見る視線だ。

 

つまり この視線そのものが 私を被害者にする。

つまり この視線でまわりを見る時、私はまわりの人々を

善意ある心優しい人にさえも いっとき 疑いの目で見る。

この視線は とても冷ややかだ。

 

「あんたも、どうせ、私を いつか 攻撃するのだろう?」

 

と うがった見方をしている ということだ。

 

この 非行少年のような 物の見方。

 

傷ついたものに特有の

傷つきたくないのに、わざわざ傷を増やすような方向の

見方をして、防衛するんだけど、

かえって、傷つくようなことを呼び込む視線・考え方・捉え方なんだ。

 

  ピラティスのレッスンが終わって

  トイレに入って、

  私は 泣いた。

  悲しみ。

  悲しみ。

 

 私は親に嫌われた!

 悲しい!

 と 感じていた。

 

 私がこどものころ、いつ感じたのか 覚えていない。

 だけど 感情だけが残っている。

 

 私は親に捨てられた!

 悲しい!

 

 と 感じた。

 

そして 家族として 一緒にすごしているけれど

愛されている訳ではないんだ、と思った。

そんな瞬間があったんだ。

 

本当は

愛されていたのに。

本当は

愛されているのに。

 

なにごとかあって、悲しくて

私は その悲しみを感じたくなくて

 

私の方から 拒絶したんだ。

 

私の方から 親の愛を拒絶したんだ。

 

私の方から 愛を拒絶したんだ。

 

そうして そのくせ 愛されたくて

 

その気持ちも自分で認めることができなくて

 

「どうせ、私のことなんか、どうでもいいくせに!」

と言う風に 怒りに転嫁させて

 

「どうせ 私のことなんか きらいなんでしょう?」

といううがった見方をして 心にブレーキをかけて

 

「どうせ 私は どこへ行っても きらわれる。」

「どうせ 私は 何をしても文句言われる。」

そんなひがんだ考えまで 暴走した。

 

でも その根っこの感情は

なにかで 悲しみを感じたことだ。

 

その悲しみを 感じたくなくて、色々な思考や妄想をこしらえて

頭のなかで どんどん疑惑を作り上げていったんだ。

 

・・・・悲しみは・・・感じて

・・・・しっかり感じて

・・・・涙を流して

・・・・そうだ、悲しかったんだね。

・・・・うんうん。悲しかったんだね。

・・・・うんうん。泣きたかったんだね。

・・・・涙。

・・・・うん、泣いたらいいよ。

・・・・泣いてしまえばいいよ。

 

悲しみの感情には ことばがありません。

 

ただただ かなしい かんじ を かんじる だけ。

 

 

わたしが わたしのそばに いてあげるから

おもいっきり ないて。

 

 

みぞおちの奥で かなしみが こみあげる。

 

しゃっくりあげる時の その場所だ。

横隔膜の 奥に 悲しみが こもっている。

 

かなしみを 感じて 感じて 感じていくと

そこが ふっくらとするのが わかった。

 

最後に 犬の遠吠えのような声が出て、

終わった。

 

 

しばらく、みぞおちを よしよし して 過ごそう。

 

 

 

 

固い背中の感情 1

体通訳カウンセラー トラウマ解放 柳澤由理です。

       ☆彡

年末押し迫ってきました。

今年の秋から始めたピラティス

年内最後のレッスンを受けてきました。

       ☆彡

ピラティスは一見ヨガっぽい動きをするのですが

動く前に、しっかり胸を動かした呼吸をして、

しっかり吸って

しっかり吐いて

腹筋を固めてから

横たわった状態で頭と上体を起こしたりするんです。

 ・・・結構 腹筋 鍛えます。

 筋トレと言ってもいいような感じです。

 

昔、ピラティスの本を大阪の図書館で借りた時

創始者のピラティス氏の晩年の写真を見ました。

筋肉隆々(りゅうりゅう)で、いかにもコアがしっかりしてそうな!

ボディビル的な筋肉ではなくて、使える筋肉って感じの、でした。

 

筋肉には感情や思考など人生を生きる時の、

その人特有の癖みたいなものが込められています。

 

骨と筋肉の境目のあたりとか

筋膜のあたりに「隠されたネガティブ思考」の「鍵」に

なっているような 激しい・深い感情が あります。

 

ボディワークを受けていると そういう過去の感情と思考が

出てきて、再体験することがあります。

 

それを恐れずに、しっかり味わいきると

「あぁ、だから私は 今まで@@だったのか」

というようなことがわかるし、

 

感じきって それと さよならすることができるのです。

        * 

私は 背中のまんなかあたりが固いので

今まで何のボディワークをやっても

仰向けになった状態から頭を起こし上体をまるめながら

上体を起こしていく、というエクササイズができません。

 

ピラティスでも この動きはよく出てきます。

これでもか、というくらい、背中をまるめる動きが

出てくるのです。

 

それを ふらふらになりながらでも 週に一回通って

やっていくと すこーしずつでも 背中が丸められるように

なってきました。

 

と同時に、そこにこもっている感情が でてくるのです。

どんな

感情だったか、というと・・・

 

長いので二回に分けます。

心が揺れ動いてもいいんだ~~河合隼雄氏の本を読んで

前の記事から1週間

間があいてしまいました。

 

香川県までマスターカウンセラー講座を

受講して そこで「禁止令」をやめて

「人生脚本の書き換え」をするという

大きなワークを受けたので

 

しばらく 頭が ぽよぽよ してました。

 

(ぽよぽよしていたのは、
 自分のなかで「障害」となっていた、
 怒りまくる父 に 手を焼いた経験を
 手放したので

 自分のなかの 記憶 の 倉 に あき が できて

 ぽよぽよーーっと ぼんやりしてしまったのです)

 

   マスターカウンセラー講座 ←リンク

 

ぽよぽよしていた時に していたことがあります。

 

それは 河合隼雄さんという 日本にカウンセリングという

ものを はじめて伝えた、ともいえる方の 本を読み

ノートに 整理していく という作業です。

 

そうすると まるで 写経でもしているかのように

落ち着いてくるのです。

 

わたしが 読んでいたのは

「生きたことば 動くこころ」というタイトルの

大学の講義での 河合隼雄さんの語録をまとめたものです。

 

  「生きたことば、動くこころ」--河合隼雄・著 ←リンク

 

そこで ちょっと 感動したものを 書いてみます。

 

カウンセリングを10回受けるとします。

クライアントは1回目から10回目まで

階段をあがるように、綺麗に心が落ち着いていく

とは限りません。

 

あるクライアントは ある時は

「あぁ、私はこの苦しみがあったおかげで

 人生を深く感じるようになった!」と

目を輝かせていた、

かと 思うと、

その次の週に来られた時には

「あぁ、私はなんでこんな目に!」と

苦しみもがき、

そうかと思うと

その次の週は また「私は幸せです!」と

言ってこられる。

 

そういう揺り返しが 繰り返されるクライアントが

いるそうです。

 

それに対して 河合隼雄さんは

その大きな 明暗 の 反転が あるがゆえに

クライアントにとって 人生に広がりが出てくる

可能性があり、

そのカウンセリングで語られていくこと自体が

その人が何かを生み出す、オリジナルの人生を

描くことになっているんだ、、、

 

というようなこと を 語っておられました。

 

それを読んで

 

カウンセリングを受けていなくても

普通の人でも こころが揺れたり

迷ったりしますよねーー。

 

その迷いや 揺り返しの時に

「どうして私はこんなに 気持ちが揺れるのー!

 どうして私はいつも 安定しないのー!」

と 思われる方も多いかもしれないですね。

 

でも、河合隼雄さんの言葉によると

 

その プラスとマイナスと見えるような

揺り返しを 繰り返していくことは

行ったり来たりしながら

らせん状に上がっていく・・・ということです。

 

らせん状に上がっていく、という表現は

前にも どこかで聞いたことあります。

 

でも この河合隼雄さんの本には

 

その らせん状に上がっていくとき、

その中心には 自分が大切にしているものが

ある、というのです。

 

親子関係が問題になっている人は

こどもを中心にして

大きく円を描きながら、それが渦巻きのように

ばねの らせんのようにして 上がっていく

というのです。

 

そうして自分の人生を作っていっているのだ。

ということです。

 

そう思うと 私も 私の友達も 世界中のみんな

迷ったりしていい。

考えることが反転してもいい。

その迷いこそが 人生をいろいろに思い描くこと

になるんだ。

 

ということです。

 

「正解」はない。

「間違っている」もない。

もう、どんな道だって、いい。

 

そう思うと ちょっと ほっとしたのです。

自分をゆるしていくと 自分に感動する

トラウマ解放セラピスト 柳澤由理です。

       *

月に一度 香川県の宇多津まで

マスターカウンセラー講座を受けに行っています。

 

    マスターカウンセラー養成講座 - jinseinantokanaru ページ!

 

長年セラピーをしてきて、
自分で自分を そうとう振り返ってきましたが

まだ

触らずにおいていた部分(一番暗かった十代の頃のこと)や

幼少時の自分のことなんかも、振りかえってみています。

       *

今までは だめな自分、というのがあったら

徹底的に 自分をジャッジして、やりこめて

否定しまくって、そのあげくに記憶の倉庫に

しまい込む、ということをしてきました。

       *

今は、そういう過去の自分に光をあてて

つらかったから、そうしたんやなぁ、という事や

そういう自分の過去の過ちを 許すという事を

チャレンジしています。

       *

今までは 許さないで生きてきたのです。

「許す」というのは こういうことか

という感じがします。

そして

そういう過去の過ちをありのままに認めて

光をあてていくと、そういう思いをしたから

そういうことを経験したから、

「これではいかん」と思って

人生を修正してきたんやなぁ、という事も

わかるようになってきました。

      *

なんとなく、ですが、

だめだめな自分も 認める

というか 許容しだしてきているんです。

      *

過去を受け入れる、

ありのままの、だめだめな私も受け入れると

だめだめな私は

ただのだめだめで終わらないんですね。

      *

今の自分がその時の気持ちも

その時の痛みもわかって

関係者への影響のことも考慮にいれて、

それでも

人生を生きていく、という意義

というのを感じています。

      *

今までだと

悪いことをした人は

「おのれ! 成敗してくれる!

 そこに直れ! 叩き切ってやるわ!」
みたいな、

正義の味方ぶった、怒りの権化みたいな精神になって

自分で自分をいたぶっていましたよ。

      *

正義の味方も一歩間違えれば

自分にとっての正義を踏み壊された、と言って

怒っている、

ただの八つ当たりにすぎないですからねー。

       *

   不思議ですが、

   なんで「正義」というものが

   あるとするならば

   「正義」は味方してやらないと

   いけないんだ?

   正義であれば、正義はそれ自体が力を発揮する。

       *

セラピストって 色んな人がいる。

「いい人ぶってる」人がいるのだけれど

自分にとっての「こうあるべき」を人に

押し付けているだけの人もいる。

私自身が

そういうの、全然してへん、て

いうつもりはない。

過去において、押し付けってしたことある。

でも

もう過去はいい。

反省はする。あぁ、ここがずれの元だったなぁと自覚しているところもある。

  でも

これからは 本当に気をつけていく。

         *

だって、今までとは違うレベルで

活動していこうと思っているからだ。

         *

話を戻して

自分で自分を許容していくと

自分で自分を受け入れだすと

自分が自分であることに 感動してくるのだ。

         *

自分が自分であることに 感動

って 変なことかもしれない。

自分が自分であることを 受け入れる

という文章は 見かける。

でも

自分が自分であること に 感動

っていうのは、

言葉ではうまく伝えられないけれども、

胸の奥とか

腹の底とか

どこか奥からじわじわとくる 響きなのだなー。

         *

静かな、静けさなんだけど、響いてくる、みたいな

そんな感じなのだ。な。

 

 

 

なぜ自分に厳しいのか?

セラピーを長年やってきて、

自分のこころの中に なにがあるか?
自分が自分を どう思うか?
ということが

その人の人生や
その人の世界観を作っていく根本の
ところになっていくんだな、
ということが

分かってきました。

 

自分が自分のことをどういう人間だと思うか?
そして
自分が自分にどうまなざしを向けるか?
ということは

親が自分がどう接したか?

ということが ひな形になっています。

 

親との関係で
親にいつも「ばか」と言われたら
自分で自分に対しても「ばか」と言ってしまいます。

 

反対に

親が自分を甘やかしすぎると、
もっともっと欲しい欲しいと言って
貰いたがるようになるそうです。

 

親から言われたから、というのが、
原因ですが、それだけでもない、
ということが わかりました。

それはこういうことです。

 

先日 私は自分が長年、
自分自身に対して厳しいまなざしや
厳しい、グッと堪えるようなきつい一言を
言ってしまうような癖が 抜けないできたことを
カウンセリングの勉強仲間にシェアしました。

 

その時

「うんうん、ゆりさん、つらかったね。

 厳しく言う以外なかったんやねー。

 でも

 ゆりさんは、なんで
 自分に優しくできなかったんやろか?」
と尋ねられて

 

今までだと
「親のせい」みたいなことを

 

こたえたと思います。

 

でもその時
カウンセリング仲間の方が

「ゆりさんは 自分に厳しいことを言う以外

 なかったんやな」

と言ってくださった言葉に、

 「は!」

と きて。

 

そうだ、その時、私は
優しくしたいと思うにしても

それまでが あまりにつらかったので
自分に厳しくするしか方法がなかったんだ。
だって
自分に優しくなんかしたら、
優しくされたりしたら、

自分が解けてなくなってしまう、
そんな感じがしたんや・・・

ということを 気づきました。

 

あまりに傷ついてきた場合、

それ以上傷を重ねないで、自分を大切に

自分に優しくしようと思っても

「優しくしないで!」
ということになってしまうんだ・・・。

 

自分に痛みを与えることで、
自分は生きてもいいと思えるような
そんな精神構造だったんだなぁ、

 

と しみじみ

 今はそういう精神構造から
 抜け出てきているので、

 痛みがある、と 痛みが嫌でも 痛みを重ねてしまう。

 ということの からくりが ちょっとわかった気がしました。

 

うわべだけ 取り繕っても

心のなかまで 許してない場合、

その許してない感が どこかで出てきます。

 

ひとは、いつか、その自分のなかの

「許してない」感とか

「ここだけは変えないぞ」感と

対峙せねばならない時がきます。

 

他の人にはわからないけど

自分のなかで ごまかしてきたけど

ごまかしきれない部分と

向き合う時、

それは

究極的に「素直になること」なんだと思います。

 

素直に

というのは

ひとのいうことを聞くのではなく

自分が自分に対して素直になる、ということです。

自分が自分を認めるとか

自分が自分を受け入れるとか

自分が自分の想いを感じ取ってやるようなこと

ではないかと思います。

 

人間には 自虐的な ところが あります。

 

それだから、戦争だとか

内戦だとか、おこるのでしょうけれども

 

本当のところ、自分で自分を痛めつけて

何の得があるのでしょうか?

 

誰かがかばってくれる、とか

誰かが優しくしてくれる、とか

そういうこともあるかもしれませんが

 

実際のところ、

痛めつけすぎると、

誰かからのやさしさや思いやりすらも

拒んでしまうほど、自虐が進んでしまうこともあります。

 

自分で自分を大切にしているか、していないか、
の ポイントは 幸福と健康を作り出しているかどうか
本当に満足している、幸福感に満喫しているか、
ということだと思います。

 

優しくされることを拒んだり

ゆっくりとのびのびすることに罪悪感を
感じていた自分を どんどん許していくことが

私の道なんだろうなと 思います。